カナダ生き生き老い暮らし

サンダース・宮松敬子

   プロローグ 老後のカナダ暮らし
   母のケースを中心に

   六七歳での移住

 暦が二〇〇〇年代に入った今になると、なんだかひどく昔のように感じられるが、今から二三年前、私が住むカナダのトロントに母が移住して来たのは、六月のさわやかな季節だった。
 二昔以上も前となればたしかに古い話だが、そのとき私は初めての子どもを流産し意気消沈していたときで、この偶然の時空の一致をことのほかうれしく思ったのを昨日のように記憶している。流産という体験は、経験者にはよく理解してもらえるだろうが、肉体的にはもちろんのこと、それ以上に精神的に非常に打ちのめされる。
 そんな時期に母が海を越え地球の反対側に来て、私たち夫婦と一緒に住むようになったことは、うれしいばかりではなく、即、頼り甲斐のある助っ人に早変わりしてくれてなんとも心強かった。
 母はその一カ月ほど前に六七歳になったばかりだったが、これは考えようによっては、“もう六七歳”ともいえる年齢であった。
 今のように国をあげて高齢化問題を口にし、「老人力」などといった言葉が使われる時代とは違って二〇年以上も前の日本では、六〇代後半の女性ともなれば、すでに“お年寄り”というイメージのほうが強く、世間の考えとしては“もう”のほうが適当だったろうと思う。
 母はそのときからさかのぼること三十余年前、三四歳という若さで夫を戦争で亡くし、以後、夫の両親や三人の幼子を抱え、山あり谷ありの人生を歩んできた。しかし六〇代に入るころには子どもたちも全員手もとから巣立ち、小さな家ながら横浜の自分の持ち家で一人暮らしを続けていたのである。
 元気ではあっても、それはご近所の方から見れば、“還暦も過ぎた女性の一人暮らし”ということになり、何かと心にかけてくださるようになっていた。

   生き方を模索するターニングポイント

 たまに気分が悪くて雨戸を閉めたまま一日か二日伏せていれば、近くの方が戸を叩いて、
「宮松さん、大丈夫ですか?」
 と様子を見にきてくださる。
 長年住んでいたことでまわりに顔見知りも多く、そんな近所づきあいはありがたいと思いこそすれ、迷惑だなどというものではまったくなかった。だが母にとってはそんな親切が、老いのとば口に立っている自分を自覚するよすがになりつつあった。
 六〇代の半ばを過ぎて、女一人来し方を振り返り、行く末を思う日々によみがえる記憶は、人の運命というものが、個人の力ではどうすることもできないと悟った関東大震災という自然の驚異であり、国家というものによって翻弄され運命が大きく変わった第二次世界大戦での経験であった。もちろんそこには、それに続いた辛苦の年月──夫の両親の葬送も、子どもの教育も、長男、長女の結婚を含む女一人の子育ての思い出もあり、そのすべてが終わったという安堵感も含まれていただろう。
 そうした数えきれない人生の、種々雑多の喜びや悲しみを併せ呑み、しかしそれに呑みこまれることなく、誠実に生きてきた一人の女のふつふつとした思いが交差したこの時期は、母にとってその後の生き方を模索する大きなターニングポイントであったことはまちがいなかったようだ。

 
 
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