──原田さんはアンリ・ルソーやピカソをはじめ、さまざまなアーティストを題材に小説を書かれてきましたが、今回、陶芸家のバーナード・リーチと彼に影響を受けた日本人たちを取り上げたのは、どういうお気持ちからだったのでしょうか。
もともと民芸品や日本の手仕事が好きで、キュレーター時代から興味を持っていたんです。私の二十代、バブルの頃までは欧米の文化に憧れる風潮がありましたが、私自身は美術史の勉強を始めたことをきっかけに、アートや工芸における日本人のアイデンティティが気になり始めていました。フリーランスのキュレーターになった四十代からは、全国を旅するようになりましたが、目的があったほうが楽しいので、旅先で積極的に窯元や手仕事の工房を訪ねたんです。私はジャグ(水差し)が好きでコレクションをしていますが、魅力的なジャグを作っている窯元で話を訊くと、かつてバーナード・リーチが訪れたところばかり。偶然なんですけど。
──強い縁を感じますね。
自分目線で恐縮ですが、「趣味が合う」と思いました(笑)。リーチと会ったことがある方もいれば、「祖父から話を聞いた」という若い方もいらっしゃいましたが、皆さんバーナード・リーチとは言わずに「リーチ先生」とおっしゃるんです。「リーチ先生が残して下さったものがここにある」と。ほほえましいと思いましたし、直接会ったことのない方までがリーチが訪れたことを誇りにし、敬意をもって旅人の私に話して下さることに驚きました。リーチの影響はある種のDNAみたいに日本人の中に残って、それに呼応したから私もひかれたのでは、という気もしました。そんな経緯から「いつかリーチを小説にしたい」と考えるようになったんです。
──リーチの仕事や人となりはもちろんですが、柳宗悦ら大正時代に活躍した白樺派の人々との交流や彼らの功績に触れられているのも、この小説の特徴ですね。
そこは強調したかったところです。話は少し飛びますが、私も含めて日本人は、モネをはじめとする印象派やゴッホのような後期印象派がとても好き。「なぜ?」という疑問がずっとありました。日本だけでなく世界的にも人気ですが、その理由の一つは、今私たちが享受しているさまざまなことが彼らの時代──十九世紀後半に始まっている場合が多いからだと思います。
例えば、海水浴やピクニックなどのレジャーが広がった背景には、鉄道網が発達して、都会に住む一般市民が遠出できるようになったことがあります。また、彼らは日夜カフェなどに集い、成熟した都市文化の担い手となりました。印象派はそういう人々を現場で描く主義だったわけです。だからそれまでの画家たちのアトリエに引きこもって描いた絵とは違って、生きているという感覚が伝わってくる作品、私たちが容易にその世界を想像できる絵になったんです。
──文明の発達が画家と絵を変えたんですね。
そうですね。その印象派を、日本に初めて紹介したのが白樺派の人たちでした。複製が多かったと思いますが、ほぼリアルタイムだったのだから驚きです。この小説にも書きましたが、彼らは印象派を紹介する展覧会を開いているんです。ですから、白樺派がいなければ、もしかしたら戦後まで印象派の絵は入ってこなかったかもしれない。日本がヨーロッパから遠く離れた極東の地であることを考えると、画期的なことだったと思います。白樺派の人たちが土台を作ってくれたから、今私たちは印象派の絵を見て自然に受け止めるんです。
──取材にも行かれましたか。
この作品に限らず私は、作家として取材しない限り書かない、書けないと考えています。リーチ・ポタリーがあるイギリスのセント・アイヴスには、もちろん行きました。リーチが陶芸用の土を求めてさまよったあたりを回ったり、お孫さんのフィリップ・リーチさんにお会いしたり。フィリップさんに「私は日本の小説家で、あなたのおじいさんのことを書かせていただきたい」と話したら、「ありがとうございます。どんなことでも書いて大丈夫です。お手伝いできることがあったら何でもおっしゃって下さい」と言っていただいたのはものすごく励みになりました。益子の濱田窯にも行って、濱田庄司のお孫さんで陶芸家の濱田友緒さんの承諾もいただきました。濱田窯では登り窯の火入れを見せていただいて、一晩中火のそばにいましたが、こういった取材や経験は本当に大きかったと思います。
──リーチたちが「好い」と思ったものを手に取ってみたいと感じ、器を巡る旅をしたくなる小説でもありました。
リーチが実際に作った器は本当にすばらしくて、私も欲しいんですけど、なかなか手に入らないんです。ただ、岡山県の大原美術館やプロローグの舞台になった大分県の小鹿田の資料館に行けば、本物を見ることができます。リーチが回った窯元には、作品が展示してあることもあります。リーチ自身が作ったものでなくても、リーチが訪れた窯元には彼のDNAがちゃんと伝わっているので、そこで気に入ったものを買って使うのもいいと思います。若い人たちが作ったものにも、リーチの息吹を感じられるので。私自身そういうものを手に入れて、日々楽しく使っています。器は使う人のためのアートなので、それを探す旅に出て、現地の食を楽しむ。帰ってきたら、買ってきた器を使う。そういったことがうまくつながっていけば、地方の活性化にも結びつくのではないでしょうか。この本を楽しんでいただいて、さらに「民芸ツーリズム」が生まれたら、とてもうれしいですね。
〈「青春と読書」 2016年11月号より一部抜粋〉
本作に登場する、実在の有名芸術家たち
1887(明治20)年〜1979(昭和54)年
香港生まれのイギリス人陶芸家。ロンドン美術学校で知り合った高村光太郎の勧めで、日本を訪れる。尾形乾山との出会いで陶芸に目覚め、日本で10年ほど作陶を学び、千葉県我孫子に自分の窯を開く。大分県小鹿田などの各地で、作陶とともに陶芸品も収集。「日本の陶芸の素晴らしさをイギリスにも伝えたい」という強い思いを秘め、帰国の途につく。
1883(明治16)年〜1956(昭和31)年
東京生まれ。彫刻家・高村光雲の息子。画家として大成することを夢見てニューヨーク、ロンドン、パリに留学。日本を代表する彫刻家・画家であったが、詩集『智恵子抄』『道程』などの名作を生んだ。
1889(明治22)年〜1961(昭和36)年
東京生まれの美術評論家。学習院高等科を経て東京帝国大学に進学。同人誌『白樺』の創刊に参加し、西洋の芸術の魅力を伝えた。また、実用的で美しい工芸品に注目し「用の美」を熱心に唱え、民藝運動を起こした。長男はインダストリアルデザイナーの柳宗理。
1894(明治27)年〜1978(昭和53)年
神奈川県出身。少年時代は画家を志していたが、東京高等工業学校の窯業科へ入学。陶芸家・板谷波山に師事し、陶芸家を目指すようになる。京都、沖縄などで学んだ後、益子焼の産地・栃木県益子町で作陶を始める。1955年、人間国宝に認定。
河井寛次郎(かわい かんじろう)
1890(明治23)年〜1966(昭和41)年
島根県の大工の家に生まれる。京都で新しい陶芸を模索し続け、独創的な作品を生み出した。「一陶工であり続けたい」という気持ちの表れからか、作品に銘を入れなくなった。また、人間国宝なども辞退してきた生涯無冠の陶工。
1886(明治19)年〜1963(昭和38)年
東京美術学校で内装と建築の勉強をしていたころ、ウィリアム・モリスの影響を受けロンドンに留学。尾形乾山のもと、リーチとともに作陶を習得し、故郷の奈良で自分の窯を作る。1955年、人間国宝に認定。
1885(明治18)年〜1976(昭和51)年
東京生まれ。白樺派の思想を支えた小説家。代表作に『友情』や『愛と死』など。