『名もなき本棚』三崎亜記『名もなき本棚』三崎亜記

5分後、あなたの日常は非日常になる。現実が揺らぎだす全19編。

名もなき本棚

中学・高校の教科書に採用された「私」「ゴール」「公園」も収録!想像を超える驚きに満ちた傑作掌編集。
デパートのショーウィンドウの中で暮らす一人の女性。いつしか僕は、そのディスプレイの前で時間を過ごすのが日課になり……。(「スノードーム」)ゴミ集積所に座り込むサラリーマン。回収日ではない日に捨てられたその男は、近所の主婦には迷惑な存在でしかなく……。(「回収」)五分後には、あなたの日常が足元から揺らぎだす! 幻想、シュール、不条理、感動。刺激的な読書体験を約束する全19編。

書名:名もなき本棚
著者名:三崎亜記
2022年7月20日発売
定価:本体638円(税込)
カバーデザイン:高橋健二(テラエンジン)
イラストレーション:ぽち
ISBN:978-4-08-744413-1

『名もなき本棚』刊行記念三崎亜記氏による特設サイト限定掌編!

※ぜひ『名もなき本棚』読了後にお読みください。

後書き

「お世話になります」
「どうぞ、お入りください」
 いつも通り、部屋の「管理人」の女性が、私を迎えた。
 靴を脱いで部屋に上がり、ネクタイを緩めた。クローゼットの中の、自分の身体(からだ)のサイズに合う部屋着を選んで着替える。初めて訪れる街の、初めての部屋だが、昨日訪れた部屋とも、一昨日訪れた部屋とも、間取りも家具の配置も同じなので、戸惑うことはなかった。
「すぐに夕食をつくりますから。準備ができるまで、しばらくおくつろぎください」
 昨日とは違う管理人が、違う街の違う部屋で、今までの管理人たちとまったく同じことを告げた。
 もう何ヶ月も、私はこうして、街から街へと、一つ所にとどまることなく移ろい続けている。さまよっているわけでも、旅をしているわけでもない。周囲から見れば、私はどこにでもいる、少しくたびれたスーツ姿のサラリーマンに過ぎないだろう。
 今日の私は、部品供給公社の作業員として、人の身体に組み込まれる「部品」の製造ラインで、ひたすら部品の検品作業に従事していた。昨日の私は、失っていた妻を発見した相手に譲渡された「妻の一割」が何なのかがわからないという相談を受ける、管理局の係官だった。
 明日の朝になれば、私はまた、今日とは違う別の人物になる。ゴミ収集所に「回収」に出されたサラリーマンを収集するクリーンセンターの職員なのかもしれない。鉄道が廃線になった後も、最終列車のレールの刻みが「きこえる」小さな旅館で働いているのかもしれない。
 こんな日々が、いったいいつまで続くのだろうか。
「はい、スタート!」
 いつか誰かが、私にスタートを告げた。その瞬間から、この移ろい続ける日々が始まったのだ。一体誰が、なぜ私にそれを告げたのか、記憶は封じられてしまっている。鞄(かばん)の中には、私の身分を示すものは、何も存在しない。私は「私」だ。だが、私を「私」と規定するものが存在しない以上、私は誰でもない。
 鞄の中の私の荷物は、たった一つ。一冊の本だけだった。いや、果たしてそれは、本と言えるのであろうか?
 タイトルも、著者名も記されていないその本は、中身もほとんどが白紙だった。真っ白なページが何百枚も続く。まるで空白のままの「日記帳」のように。
 だが、すべてが真っ白というわけではなく、最後の数ページだけ文字が記されていた。それは「後書き」だった。名前の無い作者の言葉によると、この本は、十九篇の掌編が収められた作品集らしい。作家デビュー以来、様々な媒体で書き継いできた作品を、一冊にまとめたものだという。
 この本は、いったいいつから、私の手元にあるのだろうか?
 記憶を辿(たど)っても、それはおぼろげだ。
 そもそもこの本は、大雪に見舞われた空港の「待合室」で暇を持て余している時に、隣に座った旅人から譲り受けた、旅人から旅人へと受け継がれているものだったはずだ。
「いや、違う……」
 それは、なぜこんな場所に、と思えるような路地裏で見かけた、「名もなき本棚」からもらってきた本だっただろうか?
 この本にまつわる思い出も、日々、移り変わってゆく。
 私には、何も思い出せなかった。
 一つだけわかっているのは、この本が、私と誰かを結びつける、かけがえのない存在だということだ。この本だけが、私がいったい誰で、どこから来て、どこに向かおうとしているのかを思い出すための、たった一つのアイテムなのだから。
 今日も私は、その日一日だけの業務を終えて、見知らぬ街の見知らぬ窓から外を見下ろしている。そうして朝になったら、まったく別の人生の一日を歩きだす。白紙の本と同じように、空虚な毎日だった。

 翌朝、クローゼットから背広一式を取り出し、着替える。用意されているのはどのサイズも、グレーや紺の目立たないものばかりだ。
「行ってらっしゃいませ」
 管理人が私を送り出す。彼女は、今夜はまた別の誰かをこの部屋に迎え、私もまた、まったく別の街の管理人に迎えられるのだ。
 最寄りの駅から通勤電車に乗車し、今日の勤務先に向かう。朝になると私は自然に、この日の行くべき先や、自分の従事すべき仕事がわかるのだ。
 その日の私は、ある会社で、部下のしでかした情報の「流出」に対応する上司になっていた。部下が責任をとって「緊急自爆装置」を使った所までを見届けて、私は帰路についた。また今夜も、管理人のいる部屋が、どこかの街にあるはずだ。
 家路につく乗客たちで、夕方の通勤電車はごった返していた。私と同じ、心も身体も服装も、すべてが少しくたびれたサラリーマンたちに囲まれる。周囲から見れば、私もそんな一人に過ぎない。一つだけ違うのは、彼らには、毎日決まった帰るべき場所があるのに、私にはそれが存在しないということだ。
 電車が突然、駅ではない場所で急停車した。
「え〜、ただいま、『確認済飛行物体』が異常接近しておりますので、緊急停車いたしました。ご迷惑をおかけいたしますが、しばらくお待ちください」
 確認済飛行物体が、重力を感じさせない動きで空中に浮遊し、目の前をチラチラしてうっとうしい。そういえば、「ライブカメラ」で、ひたすら確認済飛行物体の軌跡を監視し続ける仕事をしたのは、もうどれだけ前だっただろうか……。思わず顔を上げる。何かを私に訴えかけるような飛行物体が、何の変哲もない住宅街の空で不規則に揺れていた。
 その瞬間、私ははっきりとした既視感に襲われた。電車が動き出すのを焦(じ)れるように待ち、次の駅で、乗客をかき分けて車両から飛び出した。改札を駆け抜け、駅前の風景を見渡す。
「私は……、この街に住んでいた!」
 商店街の店の並びに、住宅街の細い路地に……。街のあちこちに、住んでいた頃の「街の記憶」がしっかりと残っている。見知らぬ街から街へと渡り歩く日々には、一度も芽生えたことのない感情だ。そしてその記憶は、私が誰で、なぜ、こんな日々を続けているのかを教えてくれるはずだった。
「……そうだ!」
 私は足の導きだけを信じて、記憶の中の、ある場所を目指した。
 繁華街の一画、デパートのショーウィンドウ。
 そこで私は、彼女……今の妻に出逢(であ)ったのだ。
 妻はなぜか、ショーウィンドウの中で暮らしていた。雪の降りしきる夜、ショーウィンドウの中に閉じ込められた彼女は、まるで「スノードーム」の中に住んでいるようだった。道行く人誰もが、気にもせずに通り過ぎる中、私だけが彼女に気付き、見守り続けたのだ。
 彼女は、自分の部屋にいるみたいに、ショーウィンドウの中でお茶を飲み、日記を書き、お気に入りの本を手にしていた。
「本……、そうだ。本だ!」
 彼女がショーウィンドウの中で読んでいた本が、私が今持っている本だ。そしてそれは、私自身が書いた本だった。
 私の本来の仕事は、小説家だったのだ。ほとんど世間から注目されることもない、売れない小説家。ショーウィンドウの中に住んでいた彼女が手にしていた本は、私の著作だった。だからこそ私は彼女を、外に連れ出すことができたのだ。
 この街で、彼女……いや、妻と初めて出逢ったショーウィンドウを見つけだすことができたなら、私は「ゴール」に辿り着くことができるのではないだろうか。
 私は足を速めた。気付いたのだ。少しずつ、この街での記憶が薄れていこうとしていることに。すべての記憶が消えてしまう前に目指す先に到着できなければ、私は二度と「ゴール」には辿り着けないだろう。
 向かう先が、少しずつ暗くなってゆく。夜が訪れたからというだけではない。目の前の世界そのものが、闇の中に包まれようとしている。それは、光を拒絶する、絶対的な虚無を抱えた闇だった。自らの存在そのものが闇と同化してしまいそうな恐怖に、思わず私は、足を止めてしまった。
 だが同時に、不思議な感覚を覚えた。目の前の「闇」は、自分にとって決して遠い存在ではなかった。かつて私は、この「闇」の中にいた。闇は私自身と表裏一体の存在なのだ。闇は、私を再びその中に取り込もうとしているようだ。
 次第に薄れゆく記憶と反比例するように、闇は力を増した。私はもう、進むことも戻ることもできず、その場に立ち尽くした。やがて私は、闇の中に取り込まれてしまうのだろう。
 絶望の闇に包まれた私の心に、かすかに、何かの音が響いてきた。
「きこえる……」
 羽ばたきの音だ。初めて空へと飛び立つ幼い鳥のように、つたない羽ばたき……。その姿は、闇に隠れて見えなかった。
 記憶には存在しない。だが、私にはわかった。その羽ばたきが、私に強くつながる音だということが。私の過去ではなく、未来の記憶に刻まれた音が「きこえる」のかもしれない。
 羽音に励まされるように、私は一歩を踏み出した。心から闇を消し去ることはできない。だが羽ばたきは、闇を凌駕(りょうが)する光を私の心に投げかけた。一歩、また一歩と進み、必死に、闇の奥に手を伸ばす。
 羽ばたきが、私を導く。この「闇」は、私自身の心の闇なのだ。私は、心の奥底に自らが作った迷路を進んでいるに過ぎない。羽ばたきが闇への恐怖を消し去り、闇との向き合い方を教えてくれるようだ。
 闇の中、透明な壁が行く手を阻む。それは、私と妻を隔てる壁であり、同時に、私が自分で作り上げた、心を閉ざすための壁でもあったのだろう。乗り越える決意が芽生えた今、壁は壁ではなかった。消え去った壁から、闇の奥へとぐっと手を伸ばした。
 闇の向こうから差し出された妻の手を……つかんだ!

 気が付くと私は、どことも知れないベンチに座っていた。フェンスで囲まれた殺風景な芝生の空間の中だ。
「おい、あんた。なんでここに入ってるんだ」
 突然、私は怒声を浴びせられた。作業服姿の初老の男だった。
「ここは公園のベンチだぞ、そんな風に座ってぼーっとしても良い場所じゃないんだ」
「あ、ああ、すみません」
 禁止事項が書き連ねられた文字の消えかけた看板には、確かに、「公園」と書かれていた。遊ぶことはもちろん、話すことも二人以上で訪れることも禁じられた場所だ。私の幼い頃ならともかく、今の公園で、休憩など許されるはずもなかった。
 私は慌ててベンチから立ち上がった。
「ちょっとあんた、忘れもんだよ」
 男が私に何かを差し出した。それは、一冊の本。いつも鞄の中に入っている、後書きだけが記された本だ。
「あ……、ありがとうございます」
 戸惑いながら受け取る。いったいいつ、鞄から本を取り出したのだろう? 鞄に入れようとして、何かを感じた。いつもと同じなのに、何かが違う。ページをめくってみて、初めてそれが何かがわかった。
「物語が……、よみがえっている!」
 空白だったページに、文章が現れていた。読んでみると、それはすべて、移ろい続けた日々に私が経験した、様々な人生の物語だった。
 読み進めるうちに、すべての記憶がよみがえった。
 作家となって二十年近くが経(た)ち、私はもう、物語を書く力を失ってしまっていた。原稿用紙に向き合うこともなく、カーテンを閉め切った部屋で、心の中の闇と向き合い続けていた。それと共に、私と妻を結びつけた本からは、かつて私が紡いだ物語が消えてしまったのだ。
「もう一度、あなたの物語の世界を生きてきなさい」
 妻はそう言って、「スタート」を告げて、私を送り出した。後書きだけを残して文章が消えてしまった本と共に。
「あなたの物語が、この本によみがえったら、ここに帰っていらっしゃい」
 そして私の、このいつ終わるとも知れない移ろいの日々が始まったのだ。
 本によみがえったストーリーは、私の心から失われた物語だった。ストーリーの中の人生を生きることで、自分の中の、物語を書く力を取り戻すこと……。それが妻の願いであり、私に与えられた試練だった。
 帰ろう。私が戻るべき場所……妻の元へ。

 その夜遅く、私は妻が待つ家に戻った。家には、旅立ちの前と変わらず、明かりが灯(とも)っていた。
「ようやく、物語を取り戻したのね」
 妻が書き物の手を止めて微笑(ほほえ)んだ。長い間の不在だったが、妻は、その日の朝、仕事に出かけた夫を迎えるかのように自然だった。
「だけど、本はまだ完成していないんだ」
 家に向かう電車の中で読み返して気付いていた。本に収められたストーリーは十九篇のはずだ。だが、最初と最後のストーリーを、私はまだ、取り戻せていなかった。
 そう告げても妻は、動揺する様子を見せない。そうして、さっきまで妻が書いていたものを私に手渡した。
「これは……、日記帳?」
 妻が、私がいない日々を綴(つづ)った日記帳だった。だがその日記は、妻の筆跡の前には、複数のまったく違う筆跡で書かれていた。幾人もの手で書き継がれてきたようだ。
「これが、一話目のストーリーよ。あなたの物語は、あたしの物語でもあるんだから」
 優しく微笑む妻を、私はそっと抱き寄せた。私が闇と向き合い続けた日々、彼女は何も言わず、私を見守り続けてくれたのだ。そして、離れている間も……。
「物語を書く力は、取り戻せそう?」
 自信はなかった。それにまだ、最後の物語を、私は取り戻していないのだ。
 その時、遠くの港から、一斉に船の霧笛が鳴り響いた。
 日付が変わる時刻だった。
 その音を合図とするかのように、机の上の本が、ひとりでにページを開いた。ゆっくりと、そして次第に力強く、表紙を開いては閉じるを繰り返す。それはまるで、鳥の羽ばたきのようだった。
「そうだったのか……」
 初めて空へ飛び立とうとする、つたない羽ばたき。それはまさに、あの闇の中できこえた、私を導いた羽ばたきの音だった。私と妻とを結びつけた本は、私の心への闇の訪れと共に物語を失い、そして今、物語を取り戻し、旅立とうとしている。
 私は妻と共に、本の姿を見守った。本はひときわ大きく羽ばたくと、窓から外へと飛び出した。別れを告げるように上空で大きく旋回し、飛び去っていく。
 今日、四月二十三日は「The Book Day」。本が新たな持ち主の元に向かう日だ。最後の十九篇めのストーリーを自らに刻んで、本は旅立っていったのだ。
「ゴール」
 妻が、優しく私にささやいた。移ろいの日々は終わりを告げた。そしてまた私の、闇に光を灯すような、物語を紡ぐ日々が始まる。

著者紹介

三崎亜記(みさき・あき)

1970年福岡県生まれ。熊本大学文学部史学科卒業。2004年、『となり町戦争』で小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。他の著書に『バスジャック』『失われた町』『鼓笛隊の襲来』『廃墟建築士』『逆回りのお散歩』『手のひらの幻獣』『作りかけの明日』『博多さっぱそうらん記』など。