下町やぶさか診療所 沖縄から来た娘 池永陽

浅草の診療所医師・真野麟太郎は、ご近所から大先生と呼ばれ頼りにされている。ある日、美咲と名乗る娘が訪ねて来て、麟太郎が父親だと告白。美咲の母・律子が言い残して失踪したという。
かつて、律子と親しかった麟太郎は、母娘が心配になり沖縄へ向かうが……。
真野家の居候で武闘派女子高生の麻世を相棒に、律子捜しに奮闘する大先生。隠し子騒動から難病まで、患者の心と体に寄り添う医師の人情物語。

『下町やぶさか診療所 沖縄から来た娘』

2022年4月21日発売
814円(税込)
ISBN:978-4-08-744374-5

解説 藤田香織

 突然ですが、まずはひとつ質問を。
 自分の身に直接関係のない物事について、みなさんは常日ごろ、どの程度の関心を寄せていますか?
 たとえば、台風や地震のニュース。自分がかつて訪れたことがあったり親戚や友人が住んでいる場所と、縁もゆかりもない土地での災害を、同じように案じている人はまずいないでしょう。恋人や家族が住む町に大雪が降ったと知れば、心配で連絡を取らずにはいられなくなっても、それが自分とは無関係な土地であれば「大変だねぇ」と呟くだけで終わってしまいませんか?
 知らない場所のことは、自分に関係ない。知らない人の苦難にまで心を添わせていられない。冷たいようではあるけれど、それはごくあたり前のことだし、世界の不幸や災いを、いちいち自分事として受け止めていたら身が持ちません。
 一方で、自分と縁もゆかりもなければ、すべて無関係になるかといえば、そう簡単に割り切れるものばかりではないのもまた事実。世の中には、他人より無関係でありたいと願う肉親もいれば、映像や文章でしか知らず、一面識もなくても親しみを抱いている人もいます。あの場所にいつか行ってみたいと、憧れや夢を持つことだってできる。
「知っている」と「知らない」、「関係ある」と「関係ない」、「大切な物事」と「どうでもいい物事」。果たして自分のなかで、その境界線はどこにあるのでしょうか。関心を持てる範囲は、実際に手を差し伸べられる範囲は、どこからどこまでなのか。答えはそう簡単に出せないし、できることならなるべく考えたくない問題です。でも、だけど、その判断をしなければならない有事は、いつだって突然やってくる──。
 池永陽さんの「やぶさか診療所」シリーズには、様々な魅力がありますが、この難題について「考えてみる」きっかけを得られることが、ひとつ大きな読みどころだと私は感じています。

 二〇一八年に最初の『下町やぶさか診療所』が、二〇年に『下町やぶさか診療所 いのちの約束』が刊行され、本書『下町やぶさか診療所 沖縄から来た娘』が待望の第三弾となるこのシリーズは、いずれも「web集英社文庫」で連載、配信されたものが単行本を経ずに文庫化されています。患者さんたちだけでなく、読者にとっても真野浅草診療所(やぶさか診療所の正式名称)は、親しみやすく気軽に足を運べる(手を伸ばせる)、場所となっていて、前作から読み継いできた方も多いでしょう。
 浅草警察署にほど近い、築五十年以上にもなる木造建築の診療所を営む「やぶさか先生」こと真野麟太郎は、その徒名から受ける印象とは異なり仏様のような人と評判で、金にならないと嘆きながらも親身になって日々患者を診ている六十代半ば。前二作は、そうした診療所を訪れる患者や近隣の人々が抱える病や苦悩、悩み迷いに麟太郎が寄り添う姿が連作短編形式で描かれていました。
 本書は三作目にして初の長編作。今まで周囲の人々を診て、そして見守ってきた麟太郎自身が、タイトルにも記されている「沖縄から来た娘」こと十八歳の比嘉美咲に「あなたが私の、お父さんなんですね」と問われるという、思いがけない事態に直面します。十二年ほど前に妻の妙子を亡くしている麟太郎の子どもは、三十歳になる息子の潤一ただひとり、のはずなのに。いや、まさか。でも、身に覚えはない! とも言いきれず、麟太郎は「多分、違うと思う」などと美咲に煮え切らない態度をとってしまうことに。その秘めたる理由を含め、物語は姿を消してしまったという美咲の母・律子の行方と、事の真相追究が大きな柱となっています。
 確かに麟太郎は、かつて学生時代の友人で沖縄に住む比嘉俊郎を介し、律子と面識がありました。正確にいえば、面識以上の好意もなきにしもあらずで、いろいろと確かめたいこともあり、美咲の従伯父にもあたる比嘉に会うべくまずは単身、沖縄へと渡ります。しかし、明らかになったこともあれば、判然としないこともあり、いったん帰京した麟太郎は、今度は診療所のひとつ屋根の下で暮らしている高校生の沢木麻世を連れ、再び沖縄へ向かうことに──。
 麟太郎の助手(いやむしろ助手は麟太郎では? と思わなくもないけれど)で、もはや名コンビと呼んでも過言ではない相棒・麻世の活躍もあり、曖昧模糊としていた麟太郎は美咲の父親なのか、母の律子はなぜ姿を消したのか、という問題は、少しずつ真相が明らかになっていきます。
 その過程で留意しておきたいのが、本書で繰り返し説かれる、差別と偏見、思い込みと誤解の問題。
 ひと昔前とは異なり、現在は明らさまに差別や偏見を口にする人は、ずっと少なくなった印象はあります。本書にあるように、社会に出ている人間が、面と向かって「バイキン」などと人を揶揄することは滅多にない、と個人的には思いもします。けれど、滅多にないことは皆無ではないし、それ以前に「少なくなった」というのも私の思い込みでしかないかもしれません。見え難い場所へ移っただけで、差別や偏見は、やはり今もそこここにあり、正直、私の心の中にも、ある。
 沖縄で、ハンセン病療養施設の沖縄愛楽園へ行き、ひとりで資料館を見学した麻世が、母子の碑の前で「人間のやることじゃないよ」と叫ぶ場面があります。麻世の言葉を受けた麟太郎は「そうだな。とても、人間のやることじゃねえ。しかし、人間はやるんだ。いや、人間だから、やるんだ。悲しすぎるが、それが世の中の現実だ」と返すあの場面。実は、物語の鍵となるハンセン病患者への差別について、今年五十四歳になる私は、本書を読むまで、麻世とそう変わらぬ程度の知識しかありませんでした。地域差や世代差もありますが、そのいちばんの理由は明らかで、知る必要がなく、知ろうとせずに生きてきたからです。ハンセン病のことは、知識として「そういう感染症があった」程度には知っていたし、療養所という名の隔離所が各地にあったことも、様々な裁判がニュースになっていたことも見聞きする機会はありました。けれど、自分とは「関係ない」と自然に切り捨ててきたのです。
 それだけではありません。本書には貧困や大病、DVや暴力、性差や人種による痛みや苦しみ、憎しみも目を逸らすことなく描かれていますが、そうした苦難も私は「大変だねぇ」と呟くことはあっても「自分の身に置き換えて」考えてきたとは言い難い。端的にいえば「関係のある」人を増やすことを面倒臭いとさえ思っていた自覚があります。関係ないと切り捨てたり、知らぬ顔で目を逸らすことは、ハンセン病患者を忌むべき者と見なしたり、「バイキン」と口にするほど明らかな「差別」ではないかもしれない。けれどその「区別」は、誰かを傷つけることもある。人と関わり、人を案じることを仕事にし、それが習い性となっている麟太郎の姿を通して、そう気付かされるのです。
 と同時に、そんな麟太郎や息子の潤一の何気ない言葉にも、ジェンダー的な危うさや、ルッキズム警報を鳴らしたくなるものがあることにも気付きます。麻世や美咲の容姿を褒めることも、豚肉のすき焼きにもの申すことも、受け取り方によっては差別であり偏見になる。
 彼らだけでなく、本書に出てくるざっかけない下町の人々の言葉には、そうしたものが無意識に、時には意識的に含まれ、物語のなかに散見している。それをどう受け止めるのか、それがどう受け止められるのか。人と人との「関係性」が、ここでも深い意味をもって立ち上がってくるのです。
 最後に。本書が「やぶさか診療所」シリーズの初読みとなった方は、ここからぜひ前二作にも足を運んでみてください。麻世が診療所の「居候のような者」になった経緯と、〈自分が楽になるには「あいつを殺すしかない」〉とまで思い詰めていた過去。『田園』のママ夏希が、財産のある徳三との結婚に前のめりになった理由。潤一が沖縄から帰って来る麟太郎と麻世のために用意した稲荷鮨の「川上屋」にまつわる話や、本書では明らかにされていない看護師・八重子の年齢が推測できるエピソードなど、隠れていた縁という線が浮かび上がり、より感慨が深まります。
「苦いけど、うまいな」「おいしいけど、苦い」。
 ゴーヤに限らず人生もまた然り。じっくり噛みしめて、まずは「私」を作る。正解なんてどこにもない自分なりの答えは、その先にあるのだと信じましょう。

(ふじた・かをり 書評家)

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既刊情報

『下町やぶさか診療所 いのちの約束』

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いのちの約束

池永陽

『下町やぶさか診療所』

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