乳頭温泉から消えた女 山本巧次

『乳頭温泉から消えた女』

北海道の西に位置する積丹半島。「積丹ブルー」と呼ばれるその海景を前に崖から転落死した男がいた。自殺か他殺かは定かではない。ちょうどその直後、男の取引先の女性社員・皆川が乳頭温泉で忽然と姿を消していたことが判明。果たして事件との関連性は……? 温泉で失踪発覚の瞬間に立ち会ったリスクコンサルタントの円堂は、皆川の女友達の協力も得て、独自に捜査に乗り出す。旅情×ミステリーの新境地。

2022年4月21日発売
682円(税込)
ISBN:978-4-08-744377-6

カバーデザイン/高橋健二(テラエンジン)
イラストレーション/岡野賢介

プロフィール

山本巧次やまもと・こうじ

1960年7月4日生まれ。鉄道会社勤務の傍ら2014年「八丁堀ミストレス」で第13回「このミステリーがすごい!」大賞最終候補となる。15年、同作を改稿、『大江戸科学捜査 八丁堀のおゆう』と改題し、デビュー。19年、同作はテレビドラマ化され、好評を博す。『開化鐵道探偵』『阪堺電車177号の追憶』など著書多数。

書下ろしエッセイ
乳頭温泉 オンライン鉄旅山本巧次

 東北地方で行くべき秘湯を挙げるとしたら、まず外せないのが乳頭温泉郷(にゅうとうおんせんきょう)だろう。秋田と岩手の県境近くに位置するこの温泉地は、曲がりくねった道路が山に分け入った行き止まりにあり、近くに集落もないことから、まさに秘湯感満点である。
 乳頭温泉郷の入口と言えるのは、田沢湖駅である。大正12年に生保内(おぼない)駅として誕生し、昭和41年に田沢湖駅と改称、平成9年には秋田新幹線も開業した。


田沢湖駅

 現在の駅舎はそのとき改築されたもので、ガラスと木を組み合わせた、非常にモダンで明るい建物だ。ただ欲を言えば、秘湯の玄関と言うには少々現代的過ぎるかもしれない。東京からは「こまち」で2時間50分前後、一泊で行くにも手頃な距離である。
 乳頭温泉郷へは、ここから県道で二十キロほどで、羽後(うご)交通の路線バスが出ている。「郷」と言われる通り一箇所の温泉ではなく、鶴の湯・妙乃湯・黒湯・蟹場・孫六・大釜・休暇村乳頭温泉郷の七つの湯に分かれ、それぞれ一つの宿になっている。乳頭温泉の名は、この上にそびえる乳頭山から来ているらしい。各宿では七湯に入れる湯めぐり帖が販売されており、湯めぐりの循環バスも運行されている。
 この中で最もよく画像に登場するのは、鶴の湯だろう。いちばん手前にあるのだが、他の六湯とは少し離れ、道筋も異にする。鶴の湯へは奥の六湯へ行く県道から分岐する道に入り、鬱蒼たる山の中をしばらく進むことになる。途中に鶴の湯別館「山の宿」があるが、他に人家は見えない。別館を過ぎてさらに木々の中を行くと、突然開けた場所に出る。そこが鶴の湯である。


鶴の湯

 入口には、黒い木の門が関所のごとく構えられている。その奥に長屋風の建物が二棟あり、一方が藁葺(わらぶ)きであるのが好もしい。その間を進むと、奥に宿泊棟がさらに三つあり、小川を挟んだところに湯気が上がっている。そこがお目当ての温泉である。(拙作「乳頭温泉から消えた女」に登場する「鷺の湯」はここをモチーフにしているが、建物の配置などは微妙に異なる)

 中心は、混浴の大露天風呂である。白濁した湯は肌に馴染(なじ)み、至福の癒しを与えてくれる。目を上げればすぐ後ろに山が迫り、夏は輝く緑、秋は目の覚めるような紅葉が眩(まぶ)しい。この露天の湯が、鶴の湯の最大の魅力と言っていいだろう。混浴が苦手という方には、男女別の内湯もあるので心置きなく湯を楽しんでいただきたい。鶴の湯には源泉が四つもあり、それぞれに泉質が異なっているので、全部に浸かって比べてみるのも良い。
 四季折々の情景がいずれも素晴らしい温泉であるが、最も風情を感じるのは、やはり冬だろう。秋田は雪深い地というイメージがあるが、ここ乳頭温泉郷もその例に漏れない。道路は除雪されているが、温泉の敷地内では相当な積雪が見られ、軒先にはつららが下がる。藁葺き屋根は数十センチの雪を載せたままじっと佇(たたず)む。露天風呂の周囲は雪の壁ができ、頭の手拭いが降る雪に白くなっていく。
 露天の湯に入れば、体はぽかぽか温かいが、湯から出ている顔と頭はすぐに冷える。だから湯にのぼせることなく、長く浸かって雪景色を愛(め)でることができる。雪国の湯の特権である。
 夜が、またいい。深い雪に包まれた宿は深閑とし、物音が聞こえない。少しの雑音は、雪が吸い取ってしまう。冷え切った空気はぴんと張り詰め、他に人の姿が見えなければ、何やら荘厳にさえ感じられる。

 こんな場所に立つと、ミステリ作家の性(さが)で、雪に閉ざされた部屋の中で事件が起きていないか、静寂を破る悲鳴でも聞こえないかなどと邪念を抱いてしまうのだが、無論、そんなことはあるはずもない。外灯に照らされ、とめどなく舞う雪が、ただしんしんと降り積もるだけである。
 幾つかの部屋には、囲炉裏がある。冬場には何より嬉(うれ)しい設(しつら)えだ。囲炉裏の火を囲み、家族や友人とくつろぐという体験は、現代日本では非日常である。都会の喧騒(けんそう)に疲れた身にとって、雪の夜、囲炉裏の前で静かに過ごす贅沢(ぜいたく)は、究極の癒しであるかもしれない。
 鶴の湯以外の六湯も、唯一近代建築である休暇村を除き、どれも古い木造の建物である。湯治場そのままの宿や校舎だった宿もあり、独特の風情を漂わせている。滞在日程に余裕があれば、早めに宿に入って七湯めぐりを楽しむのも、趣き深いだろう。
 コロナ禍でなかなかゆっくりと旅を楽しめない昨今であるが、この秘湯が何度でも是非訪れたいと思える地の一つであることは、間違いない。