よみもの・連載

おいしいコーヒーのいれ方 Second SeasonIX ありふれた祈り

第二回

村山由佳Yuka Murayama

4
 さっきなかなか渡れなかった信号を今度は一回で渡り、目に馴染んだ道を辿って花村家へと向かった。
 別れた時ようやくよちよち歩きを覚えたてだった妹は、どんなに可愛く育っているだろう。幼い彼女だけは僕の犯した過ちを知らずにいてくれるけれど、ずっと顔も見せなかった兄貴のことなんか忘れてしまっているかもしれない。
 忘れられていたら、また一から関係を結んでいくしかないのだと思った。すっかり失望させてしまった多くの人たちにまず詫びて、信頼を取り戻すための努力を重ねてゆくのと同じように。
 二人とも、並んで歩きながら、言葉はほとんど口にしなかった。たぶん丈のやつは、みんなの前で僕が何を言おうが言うまいが、余計な口を挟んだりしないだろう。それでも付き合ってくれるように頼んだのは、丈もまた花村の家族の一員である以上、彼に対してもきちんと詫びなくては始まらないから―というのと同時に、彼が今も変わらず僕とかれんの味方でいてくれるからだ。その場に同席してくれるだけで、僕は彼に対してもかれんに対しても恥ずかしくない自分でいなければと胸に刻み、ありったけの勇気をふりしぼってそうふるまうことができる気がする。
 久しぶりの花村家の外観は、びっくりするくらい何も変わっていなかった。雨上がりの午後、門扉を押し開けるとすぐそばに植わった白梅は満開で、あたりには甘い香りがとろりと濃く溜まっている。その枝の下に、おなじみのママチャリ。玄関ポーチに置かれた葉牡丹とパンジーの寄せ植えは、佐恵子おばさんの好きなピンク系でまとめられている。
 深呼吸をひとつ。
 のばした指の震えを取り繕う余裕もなく、古びた呼び鈴を押す。
〈はあい〉
 インターフォンに応える佐恵子おばさんの柔らかく華やいだ声の調子で、親父たちがもう来ていることをさとる。
〈どなたさま?〉
 答えようとして一瞬、言葉に詰まった僕のすぐ後ろから、
「オレ」
 と、丈が言った。
〈あら、丈? 鍵、閉まってる?〉
 ぱたぱたぱたとスリッパの音が響き、ドア横の磨りガラス越しに三和土に下りる姿が見えて、
「開いてるじゃないのよ、何よもう」
 内側からドアを押し開け、まず丈を、それから僕の顔を見てぎょっと立ちすくむ。大きなOのかたちに開いた口を、佐恵子おばさんは片手でおおった。死んだおふくろにそっくりのその目が、みるみるうちに潤んでゆく。
「か……勝……」
 まばたきとともに涙がこぼれるより先に、おばさんはつんのめるように前へ出て、僕に抱きついた。だらりとたれたままの僕の両腕ごと抱きすくめてぎゅうぎゅう締め上げ、まるでいやいやをして駄々をこねるように左右に揺らしては泣く。かれんと似てる、と思った。血は繫がっていなくても、やはり育てたひととは似るものなのだろうか。

プロフィール

村山由佳(むらやま・ゆか) 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『放蕩記』『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』『猫がいなけりゃ息もできない』など著書多数。

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