よみもの・連載

堂場瞬一×神田松鯉 作家デビュー20周年記念スペシャル対談
求道の途中で

 
構成/宮田文久 撮影/大槻志穂

堂場
僕たち小説家が手がける長編シリーズと講談の世界で、似通っているところがありますよね。講談は、本を読んで聞かせるところから発展していったとのことですし。
神田
「講談は耳で聞く小説だ」とわかりやすくいった人がいましたけれど、たしかにそうかなと思いますね。昔の講談師は講釈師と呼ばれていたように、講談は「読む芸」です。すこし歴史を踏まえてお話しすると、かつては『源平盛衰記』や『太平記』といった軍記物を、講談師が本を目の前に置いて、本当に読んで聞かせていた時代がありました。そこからだんだんと時代の変遷とともに、講談の質が変わり、本を置かなくなってきた。世話物と呼ばれる、町人社会や世相風俗をあつかうものが増えてきたこととも関係があるでしょう。そのなかで、「読む芸」を基本としながらも、演じる要素も出てきた。それが現代の講談の姿につながっているんですね。
堂場
興味深いです。「誰かに語って聞かせる」という営み自体は、それこそ人間が言葉を獲得して以来、古くからあるものですよね。そういう意味では、僕たちが今書いているような小説なんて、遥かに後輩なんだなと感じます。「語って聞かせる」ことに比べたら、あまりに新しい。だからこそ講談師の方々それぞれの、語り口≠フ個性も気になります。それは教わって身につくものなのですか、それとも自分で研究していくのでしょうか。
神田
まず、「修羅場調子(ひらばちょうし)」というものを身につけるんです。先ほど申し上げましたように、講談は、軍談からはじまっているでしょう。『源平盛衰記』や『太平記』をただ単調にずらずらーっといいたてても、お客さんはついてこれない。そこで「何が何まで何とやら……」と、節をつけ、七五調で朗誦し、合間に釈台を打楽器たる張扇でポンポンと打ってリズムをとる。そういうふうにして、お客さんの興味をそそって長続きさせるんですね。これが現在の講談師も必ず身につける軍談の調子、修羅場調子というんです。
堂場
最初に学ぶ基本なんですね。
神田
特に、『三方ヶ原軍記』というのが、講談の入門テキストになっています。三方ヶ原の合戦は、徳川家康公の運命を変えた四たびの戦に数えられるもので、『三方ヶ原軍記』は、そうした徳川四戦記のうちのひとつです。講談師はこれをやることによって修羅場調子を鍛え、声帯を鍛える。「頃は元亀三年壬申年十月十四日、甲陽の太守武田大僧正信玄、ポンポン!」……こういう調子で三十分、一時間と、ずーっと稽古していく。講談師の声帯に変えていくんですね。
堂場
トレーニングですね、体に覚え込ませるような。
神田
まさに、体に覚えさせるんですね。基本を身につけたら、新しいものをやるときも、きちっと生きる場所がでてくる。新作をやる場合でも、ここはしっかり伝えなきゃいけないという箇所は思わず歌い調子になったり、七五調で声を張ったりします。そういう応用が、現代でも使われているんです。
プロフィール

堂場瞬一(どうば・しゅんいち) 1963年、茨城県出身。青山学院大学国際政治経済学部卒。2000年、第13回小説すばる新人賞を受賞し、2001年1月、デビュー作『8年』を刊行。2013年、読売新聞社を退社し、作家専業に。2020年までの出版点数は152冊。
最新刊は10月26日刊行予定の『幻の旗の下に』。

神田松鯉(かんだ・しょうり) 1942年、群馬県前橋市出身。 講談師・人間国宝。日本講談協会、落語芸術協会所属。日本講談協会では名誉会長を、落語芸術協会では参与を務める。1970年、二代目神田山陽に入門。1992年に 三代目 神田松鯉を襲名。1988年、文化庁芸術祭賞を受賞。長年の講談界全体への功績が認められ、2019年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。