よみもの・連載

大人の旅の物語

2 癒やしのホテル

遠藤彩見Saemi Endo

 出張のメインである顧客回りと支店での仕事を終えてホテルの部屋に戻ったのは二十二時近く。手を洗っただけで冷蔵庫に直行し、入れておいたプロテインドリンクを開けた。
 プロテインドリンクを飲みながら荷ほどきをする。国内外を問わず出張が多いので慣れたものだ。洗面・風呂道具を入れたポーチをバスルームに、着替えを入れた仕分けケースをクローゼットに、部屋で使うものを入れたポーチをデスクの上に置き、文字盤が大きいデジタルの目覚まし時計を枕元にセットして完了だ。
 持参のプロテイン粉末でドリンクのお代わりを作り、真空パックのゆで卵いくつかとささみスモーク、そして大量のサプリをコーヒーテーブルに並べた。
 持参したケーブルでタブレットをテレビに繋(つな)ぎ、夕食を摂りながら、ポージングの動画を見る。もうすぐボディビルの大会に初めて出場する。フィットネスモデル部門――スポーツ雑誌に登場するモデルのように美しくつけた筋肉を競う大会だ。
 門松が筋トレにハマってから二年になる。仕事の合間を縫って週五日はジムに通う日々だ。大手商社勤務だが、幸い残業もさほどなく、二十時には退社できる。高給取りの上に独身で、ジムやサプリに費やす金にも困らない。
 筋肉をつけ体脂肪を落とすために食事も厳しく制限している。仕事の酒席は肝臓の数値がよくないと嘘をついてウーロン茶で通し、好物の焼肉やスイーツを食べるのは月に二度までと決めている。今回の出張にあたっては、航空会社の上級会員の特典をフル活用した。預けられる荷物の個数や重量が普通の乗客より多いので、食料やトレーニング道具を大量に持参できた。
 簡素な食事を終えて立ち上がった。扉を開けて剥(む)き出しにしたままの全身鏡の足元には、持参のウォーターバーベルとトレーニング用ゴムベルトが置いてある。全身鏡に映った自分と、画面でポーズを決めるフィットネスモデルに交互に視線を向けた。
 三時間弱のフライトと顧客回りで疲れ切っている。鏡に視線を向けた目が閉じてしまいそうだ。
「ん?」
 門松は合板の引き戸に目を凝らした。
 引き戸の中央に浅い凹みがある。握りこぶしくらいの大きさだ。鏡を見て、己の姿に苛立(いらだ)って殴りつけたのだろうか。
 門松もそんな衝動に襲われたことがある。食べたいものも食べず、厳しいトレーニングをこなしているのに、思うような筋肉がつかないときだ。
 拳を固め、膝を曲げて、凹みに当ててみた。
 鏡に映った自分を見て想像するに、身長百六十センチくらいの人物が苛立ちで力任せに引き戸を殴りつけたのかもしれない。
 屋上で見かけた、包帯でぐるぐる巻きになった顔が頭をよぎった。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

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