よみもの・連載

大人の旅の物語

2 癒やしのホテル

遠藤彩見Saemi Endo

「痛っ!」
 扱い慣れているはずのトレーニングチューブでしたたか腹を打たれ、門松は舌打ちして腹をさすった。
 結局、その後カイコと遭遇しないまま、四日目の朝を迎えた。鏡の前に立って腹を確認し、痣になりそうもないことを確かめて、ほっと息をついた。
「もういいだろ、なんてことない」
 鏡を見ながら自分に言い聞かせた。
 カイコが顔を隠して門松に近づけるのは、ソウルだから、旅先だからだ。日本に帰ればそういうわけにはいかない。
 そして、旅はもうすぐ終わる。
 今夜はこの出張のメインである接待で遅くなるだろう。明日は早朝にホテルを発(た)ち、朝一のフライトで東京に戻る。羽田空港でシャワーを浴びてから会社に直行する。特大スーツケース二つにパッキングをしているとノックの音がした。心臓を叩(たた)かれたようだ。
「はい」
 日本語で答えていた。
 ドアを開けると、カイコが立っていた。今日も大きめのトートバッグを肩から掛けている。
 マスクの向こうからささやきが聞こえた。
「早くからごめんなさい。チェックアウトするから挨拶に来たの。これ、漢江で話したコーヒー」
 カイコがビニールバッグを差し出した。
 テイクアウトした紙コップから、おいしそうなコーヒーの香りが漂う。
「門松くんの口に合うといいんだけど。ね、どうかな? 味見してみて」
「え、ああ……」
 言われるままに一口飲んだ。機械的に「おいしい」と作り笑いを浮かべると、カイコが「よかった」と包帯を巻いた顔を少し傾けてみせた。
「カイコちゃん、日本に帰るの?」
「うん。あとは日本で手術した顔の腫れが引くのを待つの」
 切って削って縫って貼った顔が治るプロセスをカイコが教えてくれるが耳に入らない。落ちつこうとコーヒーを飲みながら懸命に考える。
 このままでは、カイコの正体は分からないままになる。
 しかしカイコの説明はすぐに終わった。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

Back number