よみもの・連載

大人の旅の物語

2 癒やしのホテル

遠藤彩見Saemi Endo

 フタを取っておいた紙コップの中身が跳ねて、カイコのワンピースの胸元にかかる。カイコが小さく声を上げ、バッグを肩から滑り落として服についたコーヒーを見る。
「ごめん! 早く洗わないと。タオルも使って」
 バスルームのドアを開けると、カイコは素直に入っていく。閉まったドアの向こうから、まもなく水音が聞こえ始めた。
 トートバッグが床の上で門松を待っている。ベッドの上に移した。
 ファスナーで閉じられている。どこから開けるのだろう。なぜか目がかすんで、なかなかファスナーの留め具が見つからない。
 目を凝らしてやっと見つけたが、今度は指でうまくつまむことができない。
 トートバッグの傍らに腰を下ろした。全身がみるみるうちに重く痺(しび)れていく。薄暗い部屋がさらに暗くなっていく。
「どうしたの?」
 カイコの声が聞こえたときには、耐えきれずにベッドに倒れ込んでいた。

 目覚めるとベッドの上で大の字になっていた。
 節々が鈍く痛む。頭は重く痺れ、窓からの乏しい光さえも瞼(まぶた)を刺す。
 寝返りを打って時計を見ると十二時を過ぎている。三時間ほど眠ってしまったらしい。
「やばい!」
 跳ね起きて辺りを探った。支店に遅刻の連絡をしなければならない。しかし、スマホはどこにも見当たらない。
 ――どうしたの?
 ささやき声と包帯顔がぼんやりと頭に浮かんだ。
 この異常な眠気といい、カイコは何をしたのだろう。
 慌ててデスクに置いたパソコンをチェックしたが変わりはない。仕事用のバッグに入れたタブレットも、そして財布も無事だ。
 だとしたら、とタンクトップとハーフパンツをつけた自分の体を見下ろした。体も何かされた様子はない。そのとき、ノックの音がして体が跳ねた。
「成田です。門松さん、いらっしゃいますか」
 ほっとしてドアを開けると、成田がいつもの無表情で立っていた。
「すいません、遅刻して」
「どこにいらしてたんですか?」
「どこにって」
「昨日丸一日連絡が取れなくて、今朝になっても」
「丸一日? 何言ってんの、まだ半日も」
 笑おうとした顔が引きつった。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

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