よみもの・連載

大人の旅の物語

2 癒やしのホテル

遠藤彩見Saemi Endo

「お前――」
「門松くんの会社の人、今ホテルを出ていったよ。可哀想、もう面倒みてもらえないの?」
「何なんだよこれ、何で……!」
 カイコは今ロビーにいるのだろう。
 急いでボトムをつけ、靴を履く。カイコはその様子には気づかないようで楽しげに話し続ける。
「白雪姫はリンゴを食べて昏睡(こんすい)状態になるよね、魔法の鏡で探りを入れられて、うまいこと言いくるめられて、渡されたリンゴを自分で食べちゃうの」
「最初っから計画してたのかよ」
「チェックインするあなたを見かけたときからね。屋上ガーデンのことを聞いていたから、顔を隠してあなたを待ち伏せした。あなたが私に気づかないことを確認してから、改めて近づいた。私たちに共通項があってよかった、整形と筋トレ」
「一緒にすんなバケモノ!」
 送話口を指できつく押さえてドアを開け、廊下に出た。カイコが笑い、そして、門松らしき男の口真似をする。
「『もう一度俺に会いたかったら整形してきて』『ごめん、その顔無理』。あなた、私を捨てるときにそう言ったよね」
「そんなこと……!」
 よく言っていた。群がる女をあしらうときに。そのくらい言わないと、相手がすっぱり門松を諦めてくれないと思ってのことだ。
「私はあなたのその言葉で整形したの」
「いや、記憶にないし、言ったとしてもきっと冗談で――」
「心の痣は何をしても取れないの」
 カイコのささやきがぐっと低く、鋭くなる。
「私は、あなたが私に気を許すように仕向けた。あなた寂しい人ね、正体不明の女に、まんまと自分のスケジュールを話しちゃって。あなたが大事な接待を控えてるって分かったから、私は台無しにしてやることにした」
「――」
 エレベーターに乗り込みLBのボタンを押す。
「あなたは体を鍛えてるし、私が力ずくで薬を飲ませることはできない。でも、あなたが私の正体を知ろうと尾行までするようになったのを見て、釣れたって確信した。そしてあなたは、私が差し出した毒リンゴ、じゃなくて毒コーヒーを飲んじゃった。睡眠薬をたっぷり入れておいたの。あなたのその怒りっぷりからすると、大切な接待をすっぽかしちゃっただけじゃなさそうね」
 くくく、とカイコが笑う。笑ってろ、と心の中で毒づきながらエレベーターの階数表示を睨む。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

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