よみもの・連載

大人の旅の物語

3 空飛ぶ修行

遠藤彩見Saemi Endo

「大丈夫、私、体力だけはあるから」
「タダ酒なら乗ってから飲めるんだから」
「朝陽を見ながら飲めるのは今だけだよ」
 風馬が膝にクリアファイルを置き、栞に向き直った。
「分かってる? 今日と明日で六フライトだよ? 四十八時間のうち、二十四時間以上飛行機に乗るんだから。体調を崩したらどうすんだよ。負けられない戦いだって栞も言ったじゃん」
 栞は唇にグラスを運ぼうとした手を止めた。
 思い直して一口だけぐっと飲み、テーブルにグラスを置いた。風馬がすかさず反対側にグラスを移し、スケジュール表に視線を戻す。
 風馬の言うことはもっともだ。
 二十四時間以上ロイヤルクラスに搭乗するにあたって、費やした金は十数万円。しかも一番安いチケットを選んだから、払い戻しも変更もできない。
 今日明日を含め、修行すべてに掛かる費用は一人四十万円を超える。一生モノと思えばこそだが、搭乗券を買うために夏の旅行も諦め、節約に節約を重ね、風馬と一台ずつ持っていたノートパソコンの片方と、大切にしていたけれど使う機会のないブランド物のバッグを売った。
 それらをビールの泡にするわけにはいかない。栞はアロマの香り漂うラウンジの洗面所に向かいながら自分に言い聞かせた。
 ロイヤルクラスが似合うようにと丁寧にメイクを直し、洗面所を出て再びドリンクカウンターに向かった。今度はオレンジジュースを貰(もら)って席に戻った栞は、「あ」とラウンジに入ったときより大きな声を発した。
 一口しか飲まなかったグラスビールが、なぜか空になっている。
「風馬くん、ビール飲んだの?」
「男は女の人よりアルコール分解の速度が速いから」
 目を合わせずに言い放った風馬が、今度はスマホで日本中央航空のホームページを見始める。
 栞は立ったまま、ミラー加工された柱に映った風馬の横顔を見つめた。
 なぜ、風馬はLMCの会員になるための修行をするのだろう?
 付き合いだして三年、ともに暮らし始めて二年。旅好きな栞のリードで、沖縄、タイ、北海道と飛行機に乗る旅をしてきた。毎回、風馬は飛行機に乗る前は口数が減り、ぴりぴりと神経を尖(とが)らせる。昼間から酒を飲むのも飛行機に乗る前だけだ。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

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