よみもの・連載

大人の旅の物語

4 氷上のカウントダウン

遠藤彩見Saemi Endo

 エレベーターホールを進む足取りがどうしてもぎこちなくなる。江口露子(えぐちつゆこ)はロビーの手前で足を止め、両肩を引いて深呼吸をした。
 今日は隣にいない夫が、初めて訪れる国ではいつもそうして緊張をほぐしていたからだ。それに、ホテルの部屋で身にまとった重装備も体に馴染(なじ)む気がする。
 寒冷地仕様のフード付きピーコート、ニットのネックカバー、ボアの裏地が付いた防寒パンツ、スノーブーツ。スマホが使える薄手の手袋の上に、指先だけ出せるボアのミトン。ピーコートの分厚く硬い生地はまるで鎧(よろい)だ。シベリアの寒さにも耐えられる、と謳(うた)われているだけのことはある。
 ここウラジオストクはロシアの沿海地方、極東部に位置する。海に細長く突き出た形の港町で、ロシアを横断するシベリア鉄道の始発駅がある。日本列島からは日本海を挟んだ対岸にあたり、成田空港からは飛行機で二時間ちょっとで到着できる「日本から一番近いヨーロッパ」だ。年々訪れる日本人が増えているという。
 十二月末、厳寒のピークを迎えつつあるウラジオストクを旅するために、露子はこのコートをフリーマーケットサイトで手に入れた。五十路(いそじ)の女には持て余す重さだが、五十路の女だからこそ必要な重装備なのだ。
 ロボットのような歩みでロビーに入ると、カウンターの金髪碧眼(へきがん)のフロントスタッフが顔をこちらに向ける。フィギュアスケートの選手のような美しい男に挨拶代わりに微笑みかけて出入口に向かったとき、「ええ?」と戸惑ったような声が聞こえた。五時間ぶりに耳にする日本語の響きに、露子はつい視線を向けた。
 ロビーの隅に、ホテルと同じくらい古びた自動販売機が置かれている。その前に立っている若い女の子が振り返り、気づいてくれというようにカウンターに視線を向けたところだ。
 次男の恭吾(きょうご)と同年代か少し下に見えるから、二十歳そこそこだろう。着ている赤いニットを見たとき、露子の心の信号が青から赤に変わった。
 一時間ほど前にチェックインの手続きをしていたときも、赤いニットの女の子はロビーにいた。出入口の横にあるソファーセットに座り、コートとバッグを傍らに置いて、スマホに落としていた視線を入ってきた露子に向けたのを覚えている。
 そのときと同じ位置に、同じコートとバッグが置いてある。彼女はあれからずっとロビーにいたのだろうか。
「おかしいなあ、もう……」
 女の子が声を少し大きくし、長い髪と豊かな胸を揺らすように、スキニーパンツとブーツを履いた肉付きのいい足を小さく床に打ち付けた。フロントスタッフは相変わらず知らぬ顔だ。放っておけず露子は女の子に声を掛けた。
「どうしたの?」
「なんかこれ、壊れてる? 動かなくて」

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

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