よみもの・連載

大人の旅の物語

6 幸せへのフライトマップ

遠藤彩見Saemi Endo

「まあ……。まあ……」
 乗っているタクシーが新宿の大ガード下を抜けてから、右隣に座る母は窓に貼りついて嘆声を放ち続けている。淀川光里(よどがわひかり)は釣られて母の後頭部から右側の窓外に視線を向けた。
 ゴールデンウィークを前に、すっかり陽が長くなった。午後五時近くなってもまだ、ほんのり陽が陰り始めたところだ。人々の服装が軽やかになったせいか、街が一段明るくなったように見える。予約時間に間に合うだろうかとスマホの時計を見たとき、「ああ」と母が声を上げた。
「この先は伊勢丹よ。ひぃちゃん、伊勢丹に灯(あか)りがつくところが見られるわよ。ちょうど五時になるから」
「違うよ。伊勢丹は一本向こうの道」
「──」
 出端(でばな)をくじかれた母がむっと口をつぐんだ。しまった、とあわててフォローを入れる。
「帰りはそっちを通ろう。そうしたら見られるよ。三年ぶりだっけ」
「新宿もすっかり変わっちゃったわねえ」
 光里の提案を母はスルーする。
「ひぃちゃん覚えてる? 昔、お母さんが新宿で買い物をするときに一緒に連れていくと、ひいちゃんはすぐに帰りたがって。幼稚園生くらいのときよ。『ママー、お腹痛い』って」
 ご丁寧に物真似(ものまね)付きで母が再現する。またか、と閉口しつつ、「ああ……」とだけ返事した。七十歳を過ぎたというのに、三十数年前のことをよく覚えているものだ。
「少し休もう、ってお母さんが言っても、『イヤぁ、帰るー』って」
「はあ……」
 心配した、泣かされた、苦労した。母は光里に腹を立てると、すぐにその手のエピソードを持ち出してやり込める。そして気が済むと、けろりと話題を変える。
「ねえ、ひぃちゃん、どんなレストランなの?」
「レストランじゃないよ。ハワイ」
「それは聞いたわよ。ハワイ料理って」
「違う。ハワイに行くって言ったでしょ? これから、飛行機に乗って」
「意地悪しないで、いい加減に教えてくれてもいいじゃない」
 小柄で華奢(きゃしゃ)な母が身をすくめるようにして光里を見上げる。「本当だってば」と答えてから、運転席に向けて身を乗り出した。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『イメコン』『バー極楽』『千のグラスを満たすには』などがある。

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