よみもの・連載

おひとりさまごはん

ひとりで飲茶

深緑野分Nowaki Fukamidori

 日はすっかり暮れて、橋の下を流れる神田川は黒くたゆたい、その上を電車が星粒のように窓をきらきら光らせながら、スケートみたいにするすると滑っていく。都会の光は、夜を切り裂くというよりも、夜の波にうまく乗って瞬いているように見えた。電灯やビルの煌々(こうこう)とした光が連なる下り坂の底は、お祭りめいて明るく、大勢の人が行き交い、車が押し合いへし合いしている。
 クリニック、ドラッグストア、カフェの看板を光らせる大きな建物に見下ろされ、人波に揉(も)まれながら、ハイヒールでぐんぐん下る。この先にある神保町というと、古本の町だ。古本といえばチェーン店しか入ったことのない私には縁のない場所だけど、みえちゃんはよく訪れるのかもしれない。
 あたりには私とさほど年の変わらない若者が増えてきて、見上げるほど立派な大学のキャンパスの前を通り過ぎる。本当にこんなところにホテルがあるんだろうか? そんな不安がこみ上げてきたちょうどその時、頂の春風ホテル≠フ緑色の看板が目に入った。矢印は右手奥、上り坂の先を指し示している――ここまで下ったのに、今度は上るのか。
 見た目はさほどの勾配でもない印象だったけれど、いざ坂道を上り始めるとふくらはぎがぷるぷるし、日頃の運動不足を後悔した。靴も駅のロッカーの前で履き替えるんじゃなくて、ホテルで替えればよかった。ヒールはぐらついて何度も足を挫(くじ)きそうになるし、小指が悲鳴を上げる。
 やっとの思いで着いた頂の春風ホテル≠ヘ、想像していたよりも古めかしく、それでいて少し気取った雰囲気の建物だった。凸凹の凸という字によく似ている。
 正面玄関前はライトに照らされ、ホテルの従業員なのか出版社の人なのか客なのかわからないけれど、並ぶ人たちのシルエットが見えた。第五十回文化文學賞 授賞式≠ニいう立て看板の前で、スーツ姿の男女がおじぎを繰り返している。タクシーが私の横を通りすぎて停車し、着物姿の女性が降り、続いてセーターにコーデュロイパンツというラフな格好の男性が降りて、ホテルに入っていく。植え込みの前では、数人の男性が煙草を吹かしながら、どこどこ社の新人作家がどうとか、なになに社のなんとかという本の売れ行きがどうとか、熱心に話している最中だった。
 みんな場慣れした様子だった。「おお!」「久しぶり!」の声があちこちから聞こえてくる。ここにいるのはみんな文壇≠フ人たちに違いない。私は今更、自分ほど場違いな人間はいないと気がついて、怖くなりはじめた。みえちゃんしか知らない私は、どこに行ったらいいんだろう?
 ハンドバッグから招待状を出して握りしめ、引き留められはしないかとびくつきながら、入口の前に出来ていた列の後ろに、おそるおそる並ぶ。ふたり前の男性がふとこちらを振り返り、目が合うと、無表情なまま逸(そ)らされた。列はゆっくり進み、入口の手前で係の人に招待状を見せると、ひっつめ髪に黒のスーツの女性はにっこり微笑み、「奥へどうぞ」と言ってくれた。
「あ、あの」
「はい、何でしょう?」
「このパーティって、会費はどうしたらいいんですか? 招待状に書いてなくて」
 すると女性は目をぱちくりさせた後、「ああ!」と頷いた。
「授賞式ですから、お客様からお代は頂きませんよ。どうぞ中へ入っておくつろぎ下さい。式の後にはお食事もご用意していますから」
 信じられない。タダだって! 無料だって! スマホで弟にメッセージを送りたい衝動に駆られながら、ふわふわした心地で中に入る。

プロフィール

深緑野分(ふかみどり のわき) 1983年神奈川県生まれ。2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞で佳作に入選。
13年に同作を含む短編集『オーブランの少女』でデビュー。
他の著書に『戦場のコックたち』『分かれ道ノストラダムス』『ベルリンは晴れているか』『この本を盗む者は』がある。

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