連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
プロローグ 古い珈琲店にはミステリがよく似合う 一田和樹 Kazuki Ichida

 どことなく昭和の猥雑な香りを残す街、池袋。東口に西武デパート、西口に東武デパートという初心者を惑わす駅から外に出ると、こぎれいな風を装っているが、垢抜けない雰囲気の街並みが続く。おしゃれな街に欠かせないスターバックスを始めとするカフェ、きれいな舗道、新しいビル。まだ夏の暑さを残す初秋の風を受けて、道を急ぐ人々が少し汗ばみながら足早に歩いて行く。
 漂ってくるジャンクな雰囲気は、街の記憶とも言うべきものなのだろう。もはや形骸すら残っていない古い店とその客たちが織りなした物語が染みついている。
 二又交番の前を左に折れると、古くからある私立大学が見えてくる。ここまで来ると、昔からの店も残っている。まだ午前中だというのに、大学から駅に向かう学生も少なくない。道に面して学生向けの明るい佇まいの店や不動産屋が並ぶ中、ぽつんと取り残されたような小さな看板が置かれていた。「珈琲店マダムシルク」と太い文字で書かれている。その横には、地下へと続く階段がある。ほとんどの通行人は気がつかず通り過ぎ、稀に足を止めて看板をながめる者もいるが、すぐにまた歩き出す。店に続く階段を下りる者は滅多にいない。
 いまどきは喫茶店に入るよりも、チェーンのカフェあるいはファミレスに行く人が多い。学生であれば、学食を使うだろう。喫茶店を使うのには、それなりの理由が必要な時代だ。

 陽光のあふれる賑やかな街路とはうってかわった静かで暗い階段を下りると、黒い扉が待ち構えている。店の名前すら書いていない。ずっしりと重い扉を引くと、ほのかな光に包まれた珈琲の香りが漂ってくる。
 すぐに目に入るのは正面中央の大きなカウンターテーブルだ。よく磨かれた一枚板にやわらかい照明が映る。地下の店にしては天井が高く、そのおかげで窓がなくても窮屈な印象を与えない。
 カウンターの内側の壁一面にカップの並んだ棚があり、客に合わせてマスターがカップを選ぶようになっている。
「いらっしゃいませ」とマスターはカウンターの向こう側から客に語りかけ、「お好きな席にどうぞ」と言う。マスターは四十がらみの口数の少ない鋭い目をした男性で、愛想がいいとは言い難い。
 ゆるい弧を描いたカウンターの前に八つの椅子が並んでいる。客が席につくと、マスターが無言でお冷やとメニューを差し出す。メニューには、数ページにわたって珈琲豆の名前が並んでいる。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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