連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第2話 二〇一六年 晩夏 SNS乗っ取り(前編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 晩夏の昼下がり、大学を終えた月島凪(つきしまなぎ)と倉橋霧香(くらはしきりか)は珈琲店マダムシルクでひと休みしていた。一番奥の席にはいつも通り、黒いワンピースを着た常連の西村夏乃(にしむらなつの)が座っている。凪と霧香がここに来ると必ず、その席に西村がいる。
 さきほどから霧香はタブレットにいろいろな画面を表示して、最近はまっているゲームについて凪に説明している。凪は興奮気味に話す霧香の様子がかわいくてずっと聞き入っているが、内容は全く理解できていない。ゲームを嫌いなわけではないが、最近はほとんどやっていない。霧香の話しているゲームは設定が複雑だ。イカになってペンキを塗るゲームらしいのだが、それがいったいどのようなルールで成立しているのか、一時間近く聞いても凪にはまだわからなかった。
 霧香はタブレットにゲームプレイを生放送している画面を見せて凪に一生懸命何度も説明してくれる。凪にとってはゲームよりも、霧香のその様子がたまらなくかわいい。
「ねえ、まだよくわかってないよね。今度一緒にやろう」
 霧香に少しふくれた顔で言われ、どきりとした。一緒にゲームをするということは、凪の部屋か霧香の部屋ってことだ。いや、凪はゲーム機を持っていないから、必然的に一人暮らしの霧香の部屋に行くことになる。つきあっているのだから彼女の部屋に遊びに行ってもおかしくない。しかし、これまでそんなことをしたことがないから緊張する。いや、そもそも霧香がそういうつもりで言ったのかどうかもわからないのだけど。
 霧香はそんな凪の変化に気がついたのか、おしゃべりをやめて凪の顔を見た。霧香は基本的に人の顔を正面から見ることが少ない。なにかあった時だけだ。凪はもしかして自分の顔が赤くなっているのかと少しあせった。
「ねえ、この曲。聴いてると苦しくなるんだけど、あたしっておかしいのかな?」
 霧香は凪の予想と全く違うことを言い出した。照れ隠しなのかもしれない。凪も耳をすましてみる。ボーカルのない曲なのだが、楽器の音がまるで人がささやくように聞こえて心地よい。いったいなんという曲で、誰が演奏しているのだろう。マスターの好みから考えるとジャズなのだろう。
 重い扉がきしむ音がして、ひとりの男が店に入ってきた。カウンターとボックス席がひとつだけの小さな喫茶店だ。嫌でも男は凪と霧香のうしろを通ることになる。初めて見る顔だと凪は思った。二十代後半あるいは三十代前半の男性だ。まだ暑いというのに、黒い長袖シャツにジーンズを穿いている。一八〇センチほどある高い身長をもてあますように、細い身体を左右にゆらしながら歩く。
「マスター、久しぶり」
 男がわざとらしい明るい声でカウンターの奥のマスターに声をかけ、西村の隣に腰掛けた。マスターはうれしそうに目を細める。
「ごぶさた。なにかあったのかな?」
 黒ずくめのふたりが並んで腰掛けているとカップルのように見える。西村は男に無言で会釈したが、男は他のことを考えているのか気がついた様子もない。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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