連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第3話 二〇一六年秋 奇妙な面接者(前編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 霧香(きりか)との距離は以前よりもずっと近くなったが、凪(なぎ)はあと一歩が踏み出せないでいる。先月、大学の帰りに霧香のマンションに寄った時も、宅配ピザを食べながらビールを呑み、ゲームをしただけだった。かなり貴重なチャンスを逃した気がするが、今さら後悔してもしょうがない。なるようにしかならないと凪は自分に言い聞かせたが、頭のどこかで、「ほんとにそれでいいのか?」という声がした。

 その日、凪は珈琲店マダムシルクで霧香を待っていた。ちょっと緊張する。ここで霧香を待つのは初めての経験だ。霧香は、「学内で待ち合わせしていけばいいのに」と不思議そうだったが、凪は寄るところがあるからと説明した。
「怪しい。一緒に寄ってもいいのに」
 霧香は納得していない様子だったが、凪はなんとかなだめた。
 待ち合わせ時間の少し前に霧香がやってきた。重く黒い扉を少し開けると、そこから首だけ出して中の様子をうかがう。初めてひとりで店に入るから緊張しているのだろう。小動物のようでかわいらしい。その様子をながめていた凪に霧香が気づいて、ふだんより一オクターブ高い声をあげた。
「えっ? あれ? どういうこと?」
 思った以上の反応だった。凪は彼女の驚いた顔に思わず声を出して笑ってしまった。
「どうなってるの?」
 霧香はカウンター席に腰掛けながら質問する。
「こんなに驚くとは思わなかった」
 凪はくすくす笑いが止まらない。霧香がなおもなにか言おうとすると、凪の横のマスターが霧香の前にお冷やの入ったグラスを置いた。
「すまない。一時間だけちょっと君の彼氏を借りた」
「借りた? 臨時のバイトですか? なんだあ。ずっとここで働くのかと思っちゃった。一瞬のうちに、大学辞めてマスターとここで仕事する凪の人生を想像してしまった」
「ものすごい想像力だ」
 いつものことながら霧香は想像の上をゆく。霧香の目には、黒いズボンに白いシャツ、黒いベストの凪は、ふだんのジーンズ姿とはだいぶ違って見えたらしい。凪自身も、着ているだけで背筋が伸びるような気がしていた。
「急に団体のお客さんが入ってしまってね。一時間だけの短い貸し切りだから、オーダーを早く処理しないと迷惑をかけてしまう。それで月島(つきしま)くんに頼んだんだ。いつもお願いするバイトの子がちょうど来れなくてね。おかげで無事に終わった」
 マスターはまだなにも注文していない霧香の前に、「これはオレからのお詫びだ」と湯気の立つ珈琲を出す。
「そうなんだ。でも、ほんと驚いた。凪が喫茶店で働いてるのって想像したことなかった。それに、すごく似合ってて、いつもの凪じゃないみたい」
 霧香は凪とマスターを代わる代わる見比べる。じろじろと見られて、凪は少し照れた。マスターは男の凪から見てもカッコいいし、長年やっているだけあって服もなじんでいる。それに比べると、自分は全然サマになってないような気がする。服を着ているというより、服に着られている感じだ。ふだんのラフな格好と違ってこの服は自分がなにを着ているかすごく意識させられる。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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