連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第4話 二〇一六年冬 迷い道(前編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 凪(なぎ)が初めて霧香(きりか)の部屋に遊びに行った時は、ただまったりゲームと食事をしただけだったが、二度目には、帰り際、玄関で霧香が無言で身体を寄せてきて軽く唇を重ねた。なにも言わなかったが、なんとなくそうすべきなのだとわかった。凪にとっては初めてのキスだったが、特に感動はなかった。ただ緊張していた。心臓がおかしくなったんじゃないかというくらい、長い間激しく脈打っていた。
 唇を離すと、凪を見つめている霧香の顔があった。
「なにか言いたいことあったら言ってね」
 初キスの直後ということもあり、混乱した。まさか結婚の申し込みとかじゃないよな。いったいなんのことだろう?
「なんの話?」
「なんでもない」
 霧香は首を振った。なんだったのか気になるが、訊き返すのもよくないと思って我慢した。
 駅まで送ると言ってくれたが、遅い時間になっていたので、断って霧香の部屋を出た。マンションの入り口を出たところで視線を感じて振り返ると、ベランダに立って、こちらを見ている霧香が見えた。凪が振り返ったことに気づくと、両手を振って見せる。
 凪も片手を上げて振った。霧香は背中に部屋の灯りを背負っているので、表情はよく見えないが、少しさみしそうに思えた。いっそ、このまま部屋に戻ってしまったら? と少しだけ考えて諦めた。明日は一限から講義があるし、テキストは家に置いたままだ。そもそも講義を気にするような人間に、衝動的な愛の営みは向いていない。
 曲がり角を曲がって互いの姿が見えなくなるまで、ふたりとも手を振り続けた。
 女の子とつきあうのは難しい。この展開は霧香の期待通りだったんだろうか? ほんとはもっと先のことまで考えていたんだろう。イタリアに行って、寿司を食べるくらいの、やっちゃった感がある。失敗したと思う。こういうことに正解も間違いもないのだろうけど、少なくとも霧香の期待には応えられなかった気がする。
 じゃあ、どうすればよかったのかと思うと、キスよりも先のことは荷が重いと感じてしまう。本当はそうしたいのだが、いざ行動に移すための勢いがない。人畜無害の草食系のやさしい男子と言われる由縁だ。
 それに、そういうことは自然の流れが大事なんじゃないだろうかとも思う。無理にあせってもよくない。

 大学の知人に相談したら、部屋まで行ってキスまでというのは、女の子に恥をかかせたかもしれない由々しき事態だった可能性が高いと言われた。
 少し落ち込みそうになったが、霧香はなみの女の子とは違うからそんな風には考えないだろうと無理矢理自分を納得させた。それにしても、他のみんなはどうやって円滑にことを進めているのだろう。話を聞く限りでは、あまり考えていなさそうなのだが、それなら凪にだって同じことができていいはずだ。なにかが足りない。
 霧香とのことを考えていると、ふとなんで自分は真剣に考えるのだろうと妙に冷めた気持ちに襲われることがある。そこまで考えなければならないことなんだろうか。他の人間関係と同じように、自然にまかせてもいい。学校や就職や他に考えなくてはならないことはたくさんある。
 なにごともなく平和なのに、いまひとつもやもやしたものを抱えたまま、凪は毎日を過ごしていた。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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