連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第六話 晩冬 エストニア、東京(前編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 東欧エストニアのタリンにある”安心フィナンシャルアドバイザー”のオフィスではカスタマーサポートの女が客からの通話を受けていた。
 古い煉瓦造りのアパートのだだっ広い部屋の真ん中に大きな机が向かい合わせに置いてある。女の向かいの机には大型ディスプレイが三つあり、男がそこに隠れるように座っていた。横にはいくつも機械が積んであり、ケーブルが蔦(つた)のようにからまっている。煉瓦の壁と銀色の機器が妙になじんで見える。
 やがて女の電話が終わると男が話しかけた。
「逃げる準備って言っても、オレたちはたいしてすることないよな」
「ここも今住んでる場所も引き払うのよ。服や持ち物も全部持って逃げなきゃダメよ」
 女が顔を上げる。
「え? だってオレたちエストニアにいるんだぜ。ここまで来ないだろ」
 被害者は全て日本人だ。日本の警察の手はエストニアまで及ばないから大丈夫だと男は安心しきっていたのだ。
「インターポールだって動くと思うなあ。このまま同じ場所にいられるわけないでしょ」
 男の頭には、『ルパン三世』の銭形警部の姿が浮かんで来た。現実味がなさすぎる。
「インターポール? アニメでしか見たことないぜ。本当にあるんだ」
「あなた、大丈夫? 素人みたいよ」
 女は、いささかあきれた顔で男を見る。男はどうしたものかと思う。この女は自分よりも場数を踏んだ筋金入りの裏社会の住人のようだ。一年以上一緒に仕事をしているが、お互いのことはよく知らないし、訊こうともしなかった。興味がないわけではない。訊かなければよかったという目に遭いたくないからだ。
 わざわざ日本から東欧くんだりまでやってきてネット詐欺を手伝っている時点で、ろくな過去がないのは確かだ。名前はおそらく偽名だし、使っているパスポートもニセモノだろう。
「いや、だって、オレってここに来る前はずっとサーバーいじってたし、逃げるとかわかんねえ」
「ほんとに素人だったのね。あたしは、知り合いのいるロンドンに行くけど。あなたも行き先を決めて準備した方がいいわよ」
 何度も素人と言われると、むっとする。男はなにか言い返そうと思うが、詐欺に直接手を染めるのはこれが初めてというのは本当なので言い返す言葉がない。
「今までは凌(りょう)が手配してくれてたんだけどなあ。今度は自分でやんなきゃダメか……オレもロンドン行こうかな」
 自分で手配したことがない。いっそこの女にくっついて行くのも悪くないかもしれない。知り合いがいた方が安心だ。あまりつきあいはなかったが、この女も知り合いには違いない。
 だが、女は露骨に嫌な顔をした。
「やめてちょうだい。同じ場所じゃない方がいいに決まってるじゃない。オーストラリアにでも行けば?」
「オーストラリア……なんで?」
「なんとなく」
「オーストラリアって田舎すぎるだろ。金もらえるんだから、どっかのビーチリゾートにでも行こうかな」
 オーストラリアにはカンガルーとコアラのイメージしかない。それに確かサイバー関係は取り締まりが厳しいはずだ。それなら東南アジアのビーチリゾートの方が安全で楽しそうだ。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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