連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第六話 晩冬 エストニア、東京(後編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 三十分ほどして初老の客は帰った。凪(なぎ)がテーブルを拭いていると、マスターに肩を軽くたたかれた。
「さっきは、話を合わせてくれて、ありがとう」
「あ、いえ、そんな。秘密にしといた方がいいんだろうなと思って」
「助かったよ。まさかあの人が凌(りょう)とつながっているとは思わないが、万が一ってこともあるからな」
 内山(うちやま)は一年かかったと言っていたから、かなり大がかりな作戦だ。その成否に影響を与えるようなことはできるだけ排除しておきたいのだろう。逆に、自分はそれだけ信頼してもらえているのだ。誇らしい気がした。
「ちょっと失礼する」
 マスターはそう言うと、トイレに向かった。凪は、「はい」と答えて洗い終わったカップを拭いて棚に納める。
 カウンターテーブルにちょっとした汚れを見つけたので、カウンターから出てていねいに拭いた。じっとり掌に汗をかいていたことに気づく。
 カウンターの内側に戻り、壁の時計を確認した。やはり霧香(きりか)は遅い。もうすぐバイトの時間が終わってしまう。
 連絡すべきかどうか迷っていると、扉が開いて当の本人が入ってきた。
「遅くなってごめん。講義が長引いちゃって」
 霧香はそう言うとタブレットを顔に押しつけて頭を下げた。よくやる仕草だが、表情が見えなくなるのはちょっと不便だ。
「ちょうどよかった。バイトももうすぐ終わる」
 凪はそう言うと、彼女がいつも座る席にお冷やを置こうとする。普段ならここで一息入れる。
「今日は、このまま出かけない? だってバイトはもう終わりでしょう? お腹空いちゃった」
 霧香は顔を上げ、タブレットを顔の半分まで下げるとそう言った。凪は一瞬迷ったが、お冷やを引っ込める。
「そうだね。そうしようか」
 バイトの後に珈琲をご馳走になってから晩ご飯を食べに行くのが、習慣になっていた。でも、今日はこのまま食べに行ってもいいかもしれない。
 その時、マスターがトイレから出てきた。
「いらっしゃい」
 すぐに霧香に気づいて、軽く会釈する。
「こんにちは」
 霧香はタブレットを顔に当てたままお辞儀した。
「もうすぐ時間だから凪はあがっていいよ。珈琲を淹(い)れよう」
マスターはカウンターに戻りながら凪の顔を見る。どうやら、霧香との会話は聞こえていなかったらしい。
「ありがとうございます。でも、今日はこのままご飯を食べに行こうかと思って。すみません」
 せっかくの好意を断ることを申し訳なく思う。
「たまには、そういうのもいいだろう」
 マスターは驚いた様子もなく、笑顔を見せてくれた。凪は軽く頭を下げる。
「すみません」
 霧香も頭を下げる。
「そんなに恐縮されると、こちらが悪いことをしているような気になる。気にしないでくれ。次回は美味しいのをご馳走させてくれ」
「はい」
 凪は答えると、着替えのために奥の小部屋に移動した。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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