連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第七話 初春 ラスト・リゾート(前編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 大学の門を抜けた時、柔らかい風が凪(なぎ)の頬をなでた。もう冬も終わりだ。並木に明るい色が戻りつつあり、もこもこの厚着姿の人は珍しくなった。凪は早足でマダムシルクに向かった。自分は、あと何回この店に来るのだろう?
 通い慣れた道から地下へ続く階段を下りると、扉に貸し切りの札がかかっていた。時間を見ると、すでに始まっている。もしかしてバイトの時間を間違えた? 一瞬、あせったが、記憶をたぐりそんなことはないと確認する。
 不思議に思いながら店の扉を開けると、客は誰もいなかった。間違って札がかかっていたのかもしれない。でも、なんとなく雰囲気がいつもと違う。昨日も貸し切りがあった。連日で貸し切りがあるのは初めてだ。昨日、マスターと貸し切り客で、凌(りょう)を罠にかける相談をしていたから、その続きがあるのかもしれない。
 凪が挨拶して店の中に入ると、照明を抑えた店内の中央、カウンターの向こうにマスターが立っていた。珈琲を淹(い)れているようだ。だが、やはり何か変な感じがする。
「おはようございます」
 ドリップする水音がかすかに聞こえる。マスターの手元から顔にかけて、ほのかな湯気が覆っている。
「今日は貸し切りはない」
 マスターは凪の方は見ず、ドリップしている自分の手元に集中している。一瞬、なにを言われたかわからなくなる。昨晩、急に貸し切りが入ったから来てほしいとLINEで呼ばれたばかりだ。扉にも札がかかっていた。
「あ、そうなんですか? じゃあ、バイトは?」
 マスターは質問には答えず、淹れ立ての珈琲をカウンターに置く。
「オレのおごりだ」
 そう言うと、道具を洗い出す。
「まあ、座ってくれ」
 どういうことかわからずに凪が突っ立っていると、マスターが手で椅子をさした。事情がよくわからないまま、カウンター席に腰掛け、カップを手に取る。
 顔を近づけると、嗅いだことのない香りが広がる。口に含むと、まろやかであっさりしていて、それでいて深い味だ。砂糖を入れていないのに甘みを感じる。温度はいつもよりも低く抑えられている。どちらかというと、ぬるいくらいだ。そのせいか繊細な味がわかりやすい。
「とっておきの一品だ」
 そういえば、「次回は美味しいのをご馳走させてくれ」と昨日マスターに言われた。確かに美味しそうな香りがする。もしかしてこれが幻の珈琲と言われるものなのか。凪が驚いていると、マスターは無言でうなずいた。心なしか横顔がさみしそうだ。凪は不安を覚えた。なにかあったのかもしれない。
「凌は今朝逮捕された」




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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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