連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第七話 初春 ラスト・リゾート(後編) 一田和樹 Kazuki Ichida

「無事に逃げられそう?」
「明日の夜、日本を出て南米に行く。客から預かった金は明日まるごと送金しておくつもりだ」
「え? 外国に行くの?」
「だって、日本にいたら捕まるだろ」
「そうかもしれないけど……」
「落ち着いたら遊びに来いよ」
 南米……手の届かないはるか彼方に行ってしまう。声を出せなくなった。
「それとも南米で一緒に暮らすか? 君にそんなことができるかな? 全てを捨てて来れるかい?」
 外国で暮らす? 考えたことはなかった。凌とふたりきりの生活が頭に浮かび、胸が熱くなる。しかし、すぐに現実が重くのしかかってきた。大学を辞め、家を捨てなければならない。友人とも会えなくなるだろう。人生を捨てて、ついてくる覚悟があるのか? と凌は訊いているのだ。
 黙ったまま、なにも返事できなかった。
「まあ、そんなとこだろうと思ったよ。僕のために全てを投げ出す覚悟なんてあるわけないもんな」
 ここまで利用して、尽くさせて、さらに全てを捨てなければいけないのか。凌の言葉に涙が止まらなくなった。
「おいおい。止めてくれよ。泣いたってしょうがないだろ。君が僕と一緒に来るか来ないかってだけの話だ。僕は来てほしいけど、君が来たくないなら仕方がない」
 凌は笑っていた。最初から自分を連れてゆくつもりなんかなかったに違いない。
「……行きます」
 もう行くしかない。きっと自分の人生は南米で終わる。異国の地で凌に捨てられて、朽ち果てるのだ。
「へえ、うれしいな。ほんとにできるのか? まあいいや、どのみち、僕が消えてすぐだと怪しまれるだろうから、少し経ってからの方がいい。僕から連絡する。それまでいい子にしててね」
「あっ」
 通話は一方的に切られた。
 ひとりぼっちの部屋。重く苦しい空間に置き去りにされた。凌は明日の夜には、手の届かない場所に行ってしまう。本当に自分は追っていけるんだろうか? 家族にも友達にもなにも言わずに行かなければならない。もう一生会えなくなる。想像しただけでも、おそろしくなって足がすくんだ。
 凌はなぜ平気なのだろう? どうして躊躇なくたったひとりで全てを捨てて見知らぬ土地に行けるんだろう? 脚が震えていた。ベッドに入っても、目が冴えて眠れなかった。
 これからのことが繰り返し頭に浮かんできた。凌からの連絡を何日間、あるいは何ヶ月も待ち続け、そして連絡が来たらそのまま南米に行く。本当に、そんなことができるのか?
 だが、凌は逮捕された。きっと長い刑期になるに違いない。もう二度と会えないかもしれないと思うと苦しくて死にそうだ。
「さあ、行こう」
 マスターに腕を引かれて気がついた。霧香の姿は、もうどこにもなかった。いつの間にか、内山が扉の前に立って哀れむような表情で、こちらを見ている。なにも言わないでほしい。哀れまれるのは嫌だ。
「はい」
 凪は抜け殻のような身体を引きずってマダムシルクを出た。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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