連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第七話 初春 ラスト・リゾート(後編) 一田和樹 Kazuki Ichida

 あの事件の後、ここに来る勇気が湧かなかった。でもしばらくすると、どうしても行きたくなって、また来てしまった。マスターのやさしい低い声のせいだ。あの声を聞くと落ち着く。クセになる。また常連のひとりになって、しばらくすると、マスターからアルバイトを頼まれた。
「貸し切りの時だけですか?」
「いや、貸し切りはもうない。普通に仕事してほしい」
 凪がしていたことを、自分が引き継ぐような気がして複雑な気持ちだったけど、なぜか引き受けてしまった。カウンターの内側に立ってみたかっただけかもしれない。
 バイトを始めると、制服のゴシックなメイド服が好きになった。お客さんからの評判もいい。こういうごてごてした服は、あまり着る機会がなかったから、新しい発見だ。
「あら? 霧香ちゃん、ここで働くことにしたんだ」
 西村(にしむら)が店に入るなり、大きな声を出した。なんだか少し恥ずかしい。
「はい。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「結納する気?」
 笑いながら、いつもの席に腰掛けた。どうやら、挨拶の言葉がおかしかったらしい。思わず頬が熱くなる。
「誰とですか? マスターと? ないない」
「ふつつかものとかって久しぶりに聞いたわー」
「ボキャブラリーがかたよっているもので、すみません」
「ううん。楽しくていい。美少年の次は美少女とは、マスターもやるよね」
 西村はメニューをめくりながら、楽しそうに続ける。
「まるで手当たり次第みたいに言わないでください」
 マスターが苦笑する。
「そういうわけじゃないけど、マジでうらやましいわあ。店のどこかに美少年と美少女の泉があるみたい。相変わらずメニュー見ても迷うなあ。どうしよう」
 霧香が、お冷やを西村の前に置くと、好奇心丸出しの目で見つめられた。
「霧香ちゃんはマスターと凌とかいう子の痴話ゲンカに振り回されたってわけ?」
 西村はくすくす笑いながら質問した。最初は、凪や凌という言葉を聞くだけでもつらかったけど、時が経つとようやく笑えるようになった。マスターは仏頂面で腕組みして首を振る。
「痴話ゲンカはちょっとかわいそう」
 笑ってそう言うと、「なにになさいますか?」と西村に訊ねる。
「イルガチェフの浅煎りがいいかなあ。ちょい目を覚ましたい」
 初めて聞く豆の名前だが、西村が頼むということはここにあるのだろう。



       8  10 11 12 次へ
 
〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
Back number
第7話 初春 ラスト・リゾート(後編)
第7話 初春 ラスト・リゾート(前編)
第6話 晩冬 エストニア、東京(後編)
第6話 晩冬 エストニア、東京(前編)
第5話 晩冬 金融情報サービスの罠(後編)
第5話 晩冬 金融情報サービスの罠(前編)
第4話 二〇一六年冬 迷い道(後編)
第4話 二〇一六年冬 迷い道(前編)
第3話 二〇一六年秋 奇妙な面接者(後編)
第3話 二〇一六年秋 奇妙な面接者(前編)
第2話 二〇一六年 晩夏 SNS乗っ取り(後編)
第2話 二〇一六年 晩夏 SNS乗っ取り(前編)
第1話 二〇一六年 初夏 監視アプリ2
プロローグ&第1話 二〇一六年 初夏 監視アプリ