連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第七話 初春 ラスト・リゾート(後編) 一田和樹 Kazuki Ichida

「マスター、イル……なんとかの浅煎りです」
 しまった。豆の名前を忘れてしまった。ロシア人の名前みたいな豆だったんだけど。
「イルガチェフの浅煎りだね。毎度」
 マスターが口元をゆるめる。よかった。わかったみたいだ。
「あの写真は、もうしまったんだ」
 西村が棚に凌の写真がないことにめざとく気づいた。霧香も気がついていたが、訊ねることをはばかっていた。西村は容赦ない。
「まあね。もう用は済んだ。オレがまだあいつのことを気にかけていると思わせるための小道具だったからな」
 西村が、「ふーん」と感心したような声を漏らす。
「話を聞く限りでは、敵はかなりの切れ者ね。同じ手は二度と通用しないからもう写真は用なしってことね」
「その通り。西村さんは、オレより凌のことがわかるみたいだ」
「無理無理。今はどこにいるのかしらね」
「さあな。案外、すぐ近くに潜伏しているかもしれない」
 凌は実際には捕まっていなかった。一向に足取りのつかめない凌の居場所を凪から訊き出すための賭けだった。逮捕されたと信じ込ませ、凌の居場所を白状させたところまではよかった。でも、わずかな時間の差で凌は逃げた後だった。
 凌はマスターと内山が罠を仕掛けている可能性を見抜いていたようだが、遺留品から今回の情報サービスの仕掛けの裏付けがとれたので、金融機関の口座を凍結し、投資した人々に元金を戻すことはできた。結果は痛み分けというところだ。
「オレは、もう少し凌を泳がせておきたかった。もっとこちらに引き寄せて、油断させたところで一気に押さえたかったんだが、内山がもう行けると強硬に主張した」
「もったいない」
 西村が笑った。
「いや、待ったからといって、うまくいくとは限らない。チームで動いている以上、じゃっかんの意見の相違はしかたがない」
 マスターは肩をすくめる。
 霧香はマスターの言う通りだと思う。直接、顔を合わせたことはないが、話を聞く限りでは凌という人物はかなり狡猾だ。サイバー空間には、攻撃者絶対有利の法則がある。闇に隠れて攻撃してくる凌の方が有利なのは明らかだ。
 マスターたち、特に内山は、法の縛りの中でしか活動できないつらさがある。防御も追跡も合法の枠内でできることは限られる。今回のことのように攻撃できるチャンスは逃さない方がいいのだろう。
 霧香はマスターから凪のことを聞いた日のことを思い出した。だいぶ前からマスターがなにかを仕組もうとしているのには、うすうす気づいていた。
 凪には内緒で閉店後のマダムシルクを訪ね、マスターに疑問をぶつけてみた。いったいマスターは、凪になにをしようとしているのか、と。
 最初はとぼけていたマスターだったが、答えてくれないなら凪に訊きますと言うと折れた。そして霧香は凌という人物の事件とマスターの仕掛けている罠について知ることになった。聞かない方がよかったのかもしれないと今でも時々思う。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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