連載
珈琲店マダムシルクのサイバー事件簿
第七話 初春 ラスト・リゾート(後編) 一田和樹 Kazuki Ichida

「ほんとにこりてるのかなあ。でも、きっと凌という子はマスターのことを諦めていないんでしょうね」
「まあな。また、なにか仕掛けてくるかもしれない」
 マスターはそう言うと、カウンターの後ろの棚に目を向けた。視線の先には、なにもない。かつて、そこにマスターと凌の写った写真が置いてあった。凪がちょくちょくそれを横目で見ていた。
 マスターは凪や自分が考えていた以上に凌のことを愛していたのかもしれないと霧香は思った。マスターから聞いた事件の話で、ひとつだけつじつまが合わないことがある。マスターは凌を罠にかけるためにこの喫茶店を始めたはずなのに、凌がここにバイトに来たから知り合ったという。矛盾している。
 だが霧香はあえて訊かないことにしていた。なんとなく理由はわかる。マスターは前の仕事で凌のことを知ったのだ。
 すでにいくつもの犯罪に手を染めていた凌。美しく残酷な悪魔のような天使。その姿や言動に惹かれてしまったに違いない。だから凌が好きそうな店を探してマスターになり、おびき寄せ、さらに関心を持ちそうなサイバー犯罪の情報をちらつかせた。
 この店はマスターが凌を手に入れるための罠だったのだ。マスターは凌をうまく誘導して更正させ、自分と共に人生を歩むようにしようとしていたのだろう。
 きっと最初はうまくいっていた。パソコンやネットにくわしくない凌に、マスターは手取り足取りして教え、ふたりは仲良くなっていった。でも、ある一線を越えて結びついた時、凌は自分の闇にマスターを引き込もうとして、ふたりは決別した。マスターが考えていたよりも凌の闇は深く濃かった。
 こう考えると、この店が凌のための罠というのも、マスターが凌がバイトに来て初めて会ったというのも納得できる。マスターが凌を好きになり、珈琲店マダムシルクにおびき寄せて、愛し合うようになった。マスターは凌をダークサイドから引っ張り出そうとし、凌はマスターを自分の世界に引き込もうとした。そして憎み合うようになった。
 だとすると西村の言うように、壮大な痴話ゲンカだ。マスターも凌も業が深い。そしてきっと凪も……
 凪のさわやかな笑顔が霧香の脳裏に蘇り、胸が苦しくなる。これまで男子をふったことはあっても、ふられたことはなかった。思った以上につらいけど、きっとなんとかなる。なんとかする。
 霧香は、ふたりに気づかれないように小さなため息をついた。もう凪のことは思い出さないようにしないといけない。吹っ切って、これからのことを考えよう。そうでないと、自分までダークサイドに堕ちてしまう。



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〈プロフィール〉
一田和樹(いちだ かずき)
東京生まれ。経営コンサルタント会社社長、IT企業の常務取締役などを歴任後、2006年に退任。 10年、「檻の中の少女」 で島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、デビュー。 著書に『女子高生ハッカー鈴木沙穂梨と0.02ミリの冒険』『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』『キリストゲーム』『絶望トレジャー』など。 http://www.ichida-kazuki.com/ Twitter:@K_Ichida
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