連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

 浅草警察署のすぐ近く。
 大正ロマン風とでもいうのか、丸い灯(あか)りをのせた石造りの門柱が二本立っていて、古ぼけた木製の看板がかけてある。長い年月に消えかかった文字をよく見ると『真野(まの)浅草診療所』とかろうじて読める。
 敷地内の建物は木造で、これもとにかく古い。築五十年以上はたっている代物のようだが、玄関を入ったところにある待合室からは賑やかな声が響いている。どうやら、この診療所、地域の連中の集会所と化しているようだ。
 そんな待合室の騒(ざわ)めきを聞くともなしに耳に入れながら、院長の真野麟太郎(りんたろう)は両目を閉じて腕をくみ、診察室のイスに大きな体と尻を深く落しこんでいる。
 別に寝ているわけではない。強いていえば一種の安堵感――麟太郎の健康に対する格言ともいえるものは「よく笑い、よく喋る」、この一言だった。どんな健康法よりも、莫迦なことをいい合って大笑いしながら暮すのが体には一番の薬。これが長年医療に従事してきた麟太郎の答えだった。
「大(おお)先生、そろそろ、患者さんを入れてもいいですか」
 傍(かたわ)らから野太い声がかかった。
 看護師の八重子(やえこ)だ。
 正確な年齢は誰も知らないが、六十一歳の麟太郎より、かなり上なのは確かだ。
「おっ、いいよ」
 という返事より早く、老婆が一人さっさと診察室に入ってきて麟太郎の前のイスにべたっと座る。
「どうした、米子(よねこ)さん」
 気さくに麟太郎は声をかける。
「近頃、何というか目がかすんでな」
 両目をしょぼしょぼさせながら米子はいう。
「それは困ったな。俺は眼科医じゃねえからよ。目のほうはよくわからねえ」
 面白そうにいうと、
「じゃあ、腹だ。腹のほうの塩梅がよくないんだよ」
 しゃあしゃあと米子はいった。
「どう、よくねえんだ。ちゃんと、説明してくれるかな」
「重いというか、もたれるというか、気持悪いというか。とにかく尋常じゃないことは確かだね」
 眉間に皺をよせていう米子の服を看護師の八重子が後ろからまくりあげる。麟太郎はどれどれといいながら、ぺしゃっとした腹に聴診器を当てる。仮病だとはわかっているが、万が一ということもある。入念に探ってみるが、やはり異常はない。まあ、健康診断だと思えば腹も立たない。
「こりゃあ、疲れだな。体のあちこちが疲れてるんだろうなあ」
 当り障りのないことをいう。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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