連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「体の疲れかいね。わしも、もう年だからなあ……」
 米子は今年八十五歳になる。
「気疲れかもしれねえなあ」
 決して気のせいとはいわない。
「それだよ、大先生、それっ」
 勢いこんで米子はいう。
「わずかばかりの年金暮しだっていうのに、うちの宿六はパチンコ三昧。これじゃあ、気疲れして腹の具合がおかしくなるのも当然だと思わないか、大先生」
 何のことはない。米子はこれがいいたくて、ここを訪れたのだ。
 亭主の愚痴はそれから十五分ほどつづき、喋り終えた米子は、けろっとした表情で診察室を出ていった。
 そんな患者が三人ほどつづいたあと、
「大先生、次は若い女性ですよ」
 ぶっきらぼうな調子で八重子がいった。
「若い女性……それは嬉しいな」
 麟太郎もぶっきらぼうに答えるが、診察室に入ってきた患者を見て思わず吐息をもらす。
何だ、まだ子供じゃないか。しかし、それにしては体中から崩れたような雰囲気が……。
「ええと、沢木麻世(さわきまよ)さんか。十六歳というと中学生では?」
 初診票を見ながら麟太郎がいうと、
「高校二年」
 通学カバンを放るようにイスの下に置き、投げやりな声で麻世はいった。
「これは失礼、顔つきから見て」
 といって麟太郎は慌てて口をつぐむ。
 睨むような目が真直ぐ麟太郎を見ていた。
 しかし、顔の様子はまだ幼い。大きな目は大人びていたが、ふっくらした頬といい、柔らかな鼻筋といい、どこから眺めても中学生ぐらいにしか見えない。
「腕に傷を負ったと書いてあるが、どの部分がどうなったのかな」
 初診票を後ろの机に置き、やんわりとした口調で訊く。
「これだよ」
 麻世は男のような乱暴な口調でいって、左手のブラウスの袖をゆっくりとまくりあげる。手首にナイフでできたような切創痕が横に走っていた。
「ふむっ」
 麟太郎は鼻から息を吐く。明らかに自分でつけた傷だ。
 深い傷ではない。おそらく屈筋(くっきん)の一部が損傷している程度で橈骨(とうこつ)動脈も尺骨(しゃっこつ)動脈にも達していない。つまり、この子にはそこまでの思いきりはなかったと見ていい。
「自傷行為か」
 なるべく明るい声でいうと、
「違う」
 すぐに否定の言葉が返ってきた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)