連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga
「そうなると、残るのはあと、ひとつしかねえが」
 くしゃっと顔を崩して麟太郎はいう。
「そっちのほうだよ――自殺しようとして失敗したんだ」
 何でもないことのように麻世はいった。
「自殺の失敗なあ」
 麟太郎は腕をくんでから、
「それは、いつのことなんだ」
 横に裂かれた傷はほとんど塞がり、血の滲みもなかった。
「昨日の夜中。使ったのは新品のカッターナイフ」
 すらすらと麻世は答える。
「昨日の夜中なあ。で、ここへは何のためにきたんだ」
 ほっておいても治癒する傷だった。
「このままにしておいてもいいのか、それとも縫ってもらったほうがいいのか。わからなかったのでここにきた」
 抑揚のない声でいった。
「そりゃまあ、縫っておいたほうが無難といえば無難だが」
「じゃあ、縫ってくれよ」
 わずかに麻世は頭を下げた。子供じみた動作だった。麟太郎は八重子に目くばせをして、縫合の用意をさせる。
 単純な切り傷だったが、乱暴な口をきいても相手は女の子である。なるべく痕(あと)が残らないように麟太郎はていねいに縫合する。
「なぜ、自殺をしようとしたのか。その訳を俺に話してくれるか」
 世間話のように麟太郎はいう。
「まだいえないよ。あんたが信用できるかどうか、まだわからないし」
 大きな目が、また麟太郎を睨みつけた。思いつめたような顔だったが、なかなか可愛い顔だった。
「ほうっ、まだ信用できねえか。なら、いつなら信用できるんだ」
「それは……」
 麻世は一瞬いいよどみ、
「今度、この病院にきたときとか……」
 麟太郎を睨む目から強い光が消えた。
「そうか――抜糸は五日後だな。そのときに信用してくれると俺は嬉しいな」
 白髪頭をぽりぽりとかいた。
 麻世は右手にカバンをさげ、頭も下げずに診察室を出ていった。
「大先生、届けなくていいんですか。あの子、どう見たって不良ですよ、ヤンキーですよ」
 麻世が部屋を出たのを確認して、八重子が浅草署の方向を顎で指していった。
「いいんだよ。それに、そんな大袈裟なことじゃねえからよ」
「大袈裟じゃないって――仮にも、あの子は自殺しようとしたと、自分ではっきりいってるんですよ」
 八重子が高い声をあげた。


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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)