連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「自殺ったって、かすり傷程度じゃねえか。はなっから、あの子にゃ死ぬ気なんてなかったと思うよ」
「それはそうだと思いますけど。じゃあ、何のために、あの子は手首を切ったんですか」
「それは、八重さん」
 麟太郎は言葉を切ってから、
「誰かに、あの傷を見せたかったんじゃねえのか。それで白羽の矢が立ったのが、この診療所ってとこじゃねえのかな」
 淡々とした口調でいう。
「そうなると、あの不良少女の目的は待合室で待っているお年寄りと同じで、結局は愚痴話ということになるんですか」
 呆れたように八重子がいった。
「愚痴話なのか、単なる酔狂なのか。いずれ近いうちにわかるはずだ」
「大先生……」
 情けなさそうな顔で八重子は麟太郎を見て、
「また、お節介を焼くつもりですか」
「焼かねえよ、そんなもの。俺はそんなもの焼いたことがねえよ」
 麟太郎も情けなさそうな顔で答える。
「何をいってるんですか。大先生の人生は他人へのお節介ばっかり……まったく、下町生まれの人はお節介焼きばっかりなんだから」
 八重子は富山生まれである。
 何しろ、麟太郎が物心のついたころから、この診療所にいるという古参兵だった。
「私は大先生のオシメだって、取り替えたことがあるんですよ」
 というのが八重子の口癖だったが、これはどう考えても妙だった。いくら年上だといっても、この言葉が本当なら、八重子はほんの小学生ぐらいのときに麟太郎のオシメを取り替えたことになってしまう。まあ、ありえない話ではないが……。

 午前中の診療が終ったのは、一時半を過ぎたころだった。
「知(とも)ちゃん。今日は弁当かい、外食かい」
 受付の窓口に座っている、事務員兼看護師見習いの知子に声をかける。
「今日は飯野(いいの)さんと一緒に、お弁当を食べまあす」
 飯野とは八重子の姓である。
「じゃあ、仕方がねえから一人で『田園』にでも行ってくるか」
 ことさら大声で麟太郎はいう。
「お目当ては、夏希(なつき)さんの顔ですか」
「莫迦いえ。あそこのランチは安いんだ。何たって、ワンコインだからよ。貧乏町医者には神様みてえなところだ」
 この声も大きい。
「はいはい、わかってますよ。じゃあ、いってらっしゃい。三時からまた、診察が始まりますから遅れないでくださいよ」
 湯浅(ゆあさ)知子は、まだ二十二歳である。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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