連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

 どいつもこいつもと、口のなかだけで呟きながら麟太郎は外に出て昼飯に向かう。といっても『田園』は診療所のすぐ隣の店だった。
 店の前でひとつ咳払いをしてから、麟太郎は木製の扉を押す。
「いらっしゃい、大先生」
 すぐに、ここの店主である夏希のよく通る声が麟太郎を迎える。
 店のなかはほぼ満席で、ほとんどが男の客だった。小さく舌を鳴らしてから、さてどこに座ろうかと迷っていると奥の席で手を振っている男がいる。麟太郎の幼馴染みで水道屋の敏之(としゆき)だ。
 二人掛けの前の席に座ると、
「遅かったな、麟ちゃん。今日はもう、こねえかと思ってたから、ほっとしたよ。どうも俺一人だと調子が出ねえ。やっぱりよ、競争相手のおめえがそばにいねえとよ。気軽にママに声もかけられねえ」
 敏之は顔中で笑った。本当に嬉しそうだ。
「俺が一緒にいねえと、気軽に声もかけられねえか――確かに、そういうところあるよな。俺たちの世代はよ」
 麟太郎はしみじみいう。
「莫迦やってても根が純情だから、なかなか無茶はな」
「ママに声をかけるのは、無茶なことになるのか」
「俺にしたらそうだ。俺は麟ちゃんよりもずっと純情だからよ」
 やけに真面目そうな顔で敏之はいった。
「純情か……近頃は莫迦にされるだけで、とんと聞かねえ言葉だな。嫌な世の中になっちまいやがった」
 麟太郎がそういったところへ噂の主である、この店のママの古川夏希がやってきた。
「大先生、遅い! ランチタイムは二時までだから、ギリギリセーフで何とか間に合いましたけど」
 睨むような目でいう夏希の顔を見ながら、じゃあ二時を過ぎたら常連中の常連である俺でもランチはなしかと、麟太郎はほんの少ししょげる。
「今日は患者が多くて、それでよ」
 ぼそっというと、
「大繁盛で大儲け!」
 夏希はぽんと両手を叩いた。
「儲けにゃならねえよ。金の取れねえ年寄り連中が多いからな。俺んところは極力、薬は出さねえ主義だし――つまり、客単価がべらぼうに安いってことだ」
 噛(か)んで含めるようにいうと、
「あら、わかってますよ。ちょっと冗談いっただけですから。相変らず大先生は真面目なんですね。で、大先生、いつものようにランチでいいですね」
 口元に手を当てて笑うが、これが妙に色っぽい仕草に映る。
 夏希は誰が見ても美人だった。細い顎と柔らかな頬の線。鼻筋もすっと通って、二重瞼の目はくっきりと大きい。たったひとつの難はやや大きめの口だが、これだって艶っぽいといえばそうともいえる。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)