連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

 三年ほど前に他所(よそ)からやってきて今の店を居抜きで譲り受け、ウエイトレスを一人雇って夏希は『田園』を始めた。わからないのが年のほどで、三十といえばそう見えるし、四十といわれればそうも見えた。本人が明らかにしてくれないのだから何ともしようがない。
「ママにいわせれば、おめえもやっぱり真面目ということになるらしいぞ、麟ちゃん――俺と同じで、正真正銘、昭和の男ということだな。ワルにはなりきれねえお人よしっていうことだ」
 夏希が席を離れたとたん、嬉しそうに敏之がいった。
「そんなはずじゃねえつもりなんだが、まあ、人品骨柄(じんぴんこつがら)からいけば、そう見えるのも仕方がねえってことか」
 屁理屈めいたことを麟太郎はいう。
「俺もおめえも本気でママに惚れている。そういうことだ」
 したり顔でいう敏之を見ながら、俺は本当に夏希に惚れているのかと麟太郎は自問してみるが、よくわからない。
「お待ちどおさま」
 頭の上で声がして、ウエイトレスの理香子(りかこ)がランチを運んできた。手際よく、テーブルの上に並べ、
「食後のコーヒーは、どうしますか」
 と訊いてきた。ランチにコーヒーをつけるとセット料金で二百円高くなる。視線を敏之の前に走らせると、ちゃんとコーヒーカップが置いてある。
「食べ終えたころに持ってきてくれ」
 麟太郎が慌てて答えると、
「はあい、わかりました」
 理香子は小首を傾げて、その場を離れていった。年の若い理香子にはよく似合う仕草だが、夏希が小首を傾げたらどうなんだろうと考え、むしょうに見たい衝動に駆られて空咳をひとつする。
 今日のランチはチキンカツに、野菜サラダ。それに煮物と漬物の小鉢がついて、あとは豆腐の味噌汁だ。
 腹の減っている麟太郎はすぐに箸を使い出す。少しすると敏之が口を開いた。
「俺なあ、ちょっと麟ちゃんに相談があるんだが聞いてくれるか」
 えらく殊勝な顔つきで訊いてきた。
「いいけどよ。これを食い終るまで少し待ってくれるか」
 いいながら麟太郎は次々と料理を口のなかに放りこんでいく。早飯早糞は医者の常である。いつ何時、急患が運ばれてくるかもしれない商売なのだ。
 ランチを食べ終え、食後のコーヒーが理香子の手で運ばれてきたあと、敏之が口を開いた。
「胃の調子が、ちょっとおかしいんだ。だからよ、あるいは……」
 何となく歯ぎれの悪い口調だ。
「おかしいって、どんな具合におかしいんだ。具体的に話してみな」
 コーヒーもそのままに、麟太郎は敏之のほうに身を乗り出す。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)