連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「いちばんいえるのは、胃のもたれと重さだな。それに、食欲不振もけっこうあるから参っちまうな」
 敏之はいうが、テーブルの上のランチはほとんど食べられて残っていない。これで食欲不振というのは……麟太郎は怪訝な視線を敏之に向ける。
「それはあれだ。折角ママが一生懸命つくってくれたものを残すなんてことはよ。だからまあ、無理してというか」
 いい訳じみた説明を敏之はした。
「なるほどな……」
 麟太郎はぼそっといい、それで他の症状はどんなものだとあとをうながす。
「他の症状っていっても、大体がまあそんなところだよ」
 嗄(しわが)れた声で敏之はいう。
「要するにこういうことか。俺たちも、もう年だから、いつどんな病に侵されても不思議ではない。そんなところへ胃の不調という症状が現れた」
 麟太郎はいったん言葉を切ってから、
「それでおめえは、自分は癌なんじゃねえかと、そんな思いに取りつかれた。簡単にいうと、そういうことだな」
「まあ、そうだけどよ」
 しおれた声を敏之は出す。
 つまりは癌恐怖症というやつだ。
「ちょっと、体の力を抜け」
 麟太郎は敏之の脇に移動してシャツのボタンを外してやる。右手を入れて鳩尾の部分を探るが硬さは感じられない。腹水のたまりもないようだ。
 これなら多分大丈夫だとは思うが、癌恐怖症の人間に口で説明してもなかなか納得はしてもらえない。それに万が一ということもある。念には念を入れろだ。
「俺の診るところ、今のところ異常は感じられない。だが、それだけではなかなかおめえは納得しづらいだろうから、専門医に診てもらえ。紹介状を書いてやるから、息子のいる大学病院へ行け。あそこで出た結果なら、おめえも文句はねえはずだ」
 噛んで含めるように麟太郎はいう。
「えっ、若先生のいる、大学病院へ行って診てもらうのか」
 敏之の声がほんの少し、大きくなる。
 若先生とは麟太郎の一人息子で真野潤一(じゅんいち)。現在二十九歳でT大の医学部を出て、そのまま外科医として大学病院に勤務している。病院近くのアパートに独り暮しで、浅草のほうにも時折顔を見せる。
「そうか、若先生のいる病院で検査か……たまにしか見ねえけど、えらく立派になって。今の姿を一目でいいから、妙子(たえこ)さんにも見せてやりたかったなあ。あれからもう、十年以上だろ」
 しみじみとした声で敏之はいう。
 麟太郎の妻の妙子が脳動脈瘤による蜘蛛膜下(くもまくか)出血で呆気なく死んだのは、今から十一年前。あっというまの出来事で、何もしてやれなかったのが麟太郎にしてみれば悔しくて仕方がなかったが、どうしようもない。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
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第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)