連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「そうだな。しかし、こればっかりはどうしようもな……」
 麟太郎も喉に引っかかったような、嗄れた声を出す。
「まあ、とにかくだ」
 そんな空気を追い払うように、
「おめえは大学病院に行って、専門医の診断を受ける。そうすれば、気分よく暮していけるだろうからよ」
 大声で敏之に発破をかける。
「わかった。じゃあ、紹介状を書いといてくれ、明日にでも取りに行くからよ。大学病院のほうは仕事の合間を見つけて行ってくるからよ」
 敏之もしゃきっとした声をあげる。
「仕事のほうは、忙しいのか」
 自分の席に戻りながらいう麟太郎に、
「おめっちと同じだよ。仕事は切れめなくあるんだが、不景気がつづいたおかげで下がった単価がどうにも元に戻らねえ。だから、なかなか儲かるところまではな」
 溜息まじりで敏之は答える。
「どこもかしこも同じだなあ……まあ、何とか食えれば、それでよしとしねえとな。貧乏人が欲をかくと、ろくなことになりかねねえからよ」
 首根を叩きながら麟太郎がいうと、
「違(ちげ)えねえ――ところで麟ちゃん、今夜は田園(ここ)に顔を出すのか」
 窺うような目で敏之が見た。
「三日ほどきてねえから、今夜は顔を出そうと思ってるけどよ」
 この店は夜になると喫茶店からスナック『田園』に変身して、酔客を相手にすることになるのだ。
「そうか、久しぶりに麟ちゃんの『唐獅子牡丹』を聴いてみたい気もするが、今夜は無理だな。しょっちゅうだとカミサンがいい顔をしねえからな。独り身のおめえが羨(うらやま)しいよ」
 本当に羨しそうな表情だ。
「その代り、夜はあの古い医院の二階で独り寝だ。これはかなり怖いものがあるぞ。何だかんだといっても、けっこうな数の人間があそこでは死んでいるからな」
 冗談まじりにいうと、
「そうだよな、診療所だからな、死んだ人間の数は相当なものになるんだろうな」
 敏之は体をぶるっと震わせてから、視線を落して固まった。
「おい、麟ちゃん……」
 少ししてから蚊の鳴くような声を出した。
「俺の胃癌の話なんだが、本当に大丈夫なんだろうな」
 呟くような声だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
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第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)