連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「俺も医者だから、絶対という言葉は使えねえが。それにしたって、まず大丈夫だろうとは思うよ」
 宥(なだ)めるようにいうと、
「そういってもらえると助かるよ。駄目だな俺は、気が小せえからよ。病気を自分でこさえちまう性質(たち)だからよ」
 敏之は、ぽつりと本音じみたことをいった。
「誰しも同じさ。いざとなったら、じたばたするのが人間という代物なんだ。偉そうなことをいってる俺だって、いざ、そういうことになったら」
「どうなるんだ」
 覇気のない目が麟太郎を見ていた。
「びびりまくって、それこそ、金玉が縮みあがって漏らしまくるかもしれねえな」
「――おめえはいいやつだなあ」
 敏之はぼそっといって、コーヒーカップを取りあげた。
「乾杯しよう、麟ちゃん」
 麟太郎も自分のカップを取りあげ、二人はカップをぶつけ合った。
 いい音だった。

 五日が過ぎて麻世が診療所に姿を見せた。午後の診療だった。
 麻世は先日と同じように通学カバンを放るようにイスの下に置き、
「きたからな」
 ぼそっといって、ゆっくりと腰を落した。
「おう、よくきたな。それだけでも喜ばねえといけねえな」
 言葉を返しつつ、麟太郎は頭のなかで首を捻(ひね)る。
 実をいうと、先日、麻世を見たときから麟太郎には腑に落ちないところがあった。一連の麻世の動きが、どうにもしっくりこない。動きがスムーズでないというか、バランスが悪いというか――そんな気がしてならないのだが、じゃあ、どこがどうしてといわれるとまったくわからないから困る。
「じゃあ、見せてみろ」
 麟太郎の言葉に、麻世は左手の内側をすっと差し出す。包帯は看護師の八重子によって、あらかじめ外されている。
「おう、いいな。良好だ。じゃあ、この前いったように今日で抜糸するからな」
 麻世がわずかに顎を引く。
「少し痛いかもしれねえが、それぐらいは我慢しろ」
 何気なくいった麟太郎の一言に、
「痛さには慣れてるから、別段、どってことないよ」
 すぐに麻世が反応した。
「痛さには慣れてるってか。それはまた、物騒な話だな」
 すぐに麟太郎が水を向けるが、麻世は知らぬ顔をして無視をきめこむ。
「じゃあ、抜糸するからな」
 麟太郎はハサミとピンセットで器用に糸をほどいていくが、麻世はまったくの無反応で表情も変えない。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)