連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「数年ほどは痕も目立つが、それを過ぎればどんどん薄れていくはずだから、心配はいらんぞ」
 すべての作業を終って麟太郎がいうと、
「傷痕なんて、どれだけ残ってもいいよ。一種の勲章のようなもんだから」
 何でもないことのようにいった。
「一種の勲章か。麻世は、そういう境遇に身を置いてるっていうことか」
 すかさず呼びすてで麟太郎がいうと、
「もしそうなら、何だっていうのさ。何か文句でもあるっていうのか」
 叫ぶようにいった。
「文句はねえさ。ただ、微弱ながら何かの力になってやりてえと思ってな。といっても他意はねえから心配するな」
「私の力になるって、あんたはいうのか。まだ二回しか顔を合せてない、見ず知らずの私の力に。信じられないよ」
 表情が動いた。目を大きく見開いた。
「ここではみんな、持ちつ持たれつで生きている。この診療所にくる人間は、圧倒的に弱い者が多いからな。もちろん、これは俺を含めての話だがよ」
「医者のあんたが、弱者だっていうのか。信じられないよ、そんなこと」
 吐きすてるように麻世はいった。
「こんな、ボロ診療所をやってて儲かると思うか。それに、やってくるのは近所のじいさんや、ばあさんばかり。地位や名誉なんてものは薬にしたくってもねえぞ」
 友達に話すように麟太郎はいう。
「それは、そうかもしれないけど……」
 くぐもった声を麻世は出した。
「だがな、弱者だからって不幸とは限らねえ。金はねえが、みんなそこそこ楽しんで暮してるのも確かだ。自分の身の丈に合った幸せを見つけてな」
「身の丈に合った幸せ……」
 独り言のようにいう麻世に、
「だからよ、麻世もすべて俺に話してみねえか。いったい何があって手首を切ろうとしたかっていう訳をよ」
 麟太郎は単刀直入にいう。
「それは……」
「それは何だ──いっておくが俺はお節介焼きの大酒のみだが、人間の質のほうはまあまあだと思っている。だから話せ。全部話して楽になれ。大きな力にはなれねえかもしれねえが、少なくとも、麻世と一緒に泣いてやることぐれえはできる。だから話してくれねえか」
「それは……」
 麻世は同じ言葉を口にして、うつむいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
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第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)