連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(前) 池永 陽 You Ikenaga

「第一、数ある病院のなかから、なんで麻世はこの診療所を選んだんだ。誰かに訊いてここにきたのか」
「友達から聞いて……」
 細い声が答えた。
「ほうっ、何を聞いたんだ」
 麟太郎は大きな体をイスから乗り出す。
「ここの先生は、ちょっと変っているから行ってみる価値はあるという……」
「行ってみる価値か。それでどうだ、ここにきてみてどう思った?」
 麻世の顔を正面から見た。
「この前いった信用のほうは、多少できたかもしれないと思った。少なくともあんたは、私のことを警察には届けなかったみたいだから。そっちからの連絡はまったくなかったから、そういうことなんだろうと思った」
 掠(かす)れた声で麻世はいった。
「なるほど。この五日間は、そういう意味でのお試し期間だったのか。まったく気づかなかった」
 嬉しそうに麟太郎はいい、
「その、お試し期間が合格だったのなら、すべてを話してくれてもいいんじゃないか。悪いようにはしねえからよ」
 顔中で笑った。
「それは、そうなんだけど」
 麻世は一瞬いいよどんでから、
「よく考えてみるよ。そして、次にくるときは話すよ。それとも、私の治療はこれでもう終りなのか」
 上目遣いに麟太郎を見た。
「むろん、終りじゃねえさ。怪我の予後っていうのもあるからな。じゃあ、三日後にまたここにきてくれ。話はそれからだ」
 麟太郎の言葉でこの場は収まり、麻世は通学カバンを抱えて帰っていった。帰るとき、ほんのちょっとだったが、今日は麟太郎に向かって麻世は頭を下げた。
「なかなか、強情な子ですね」
 麻世が外に出たのを確かめて八重子がいった。
「拗ね者には拗ね者なりの、プライドと儀式が必要なのさ」
「本当に三日後にくるんでしょうか」
「くるさ。この三日の間にどうにか、ここにくる理由をこしらえて、それを何とか自分の心に納得させて折り合いをつけ、くたくたになってここに現れるはずだ。しかし、それにしても……」
 今日の麻世も動きが変だった。ぎこちないというか、バランスが崩れているというか。だが、それが何であるかは、いくら考えても麟太郎にはわからなかった。

(つづく)


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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)