連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

 いつもより待合室の人数が多い。
 今日は大学病院に勤めている一人息子の潤一が休みで、そんなとき潤一は決まって、麟太郎を手伝ってこの診療所の患者の診察にあたるのが研修医のときからの習慣だった。
 どこで潤一のきていることを知るのか、患者の数が多いのはそのせいに違いない。それが麟太郎には、ほんのちょっとだが癪の種でもある。潤一は長身痩せ型で、甘いマスクの持主である。
 診察室で潤一は患者の体に聴診器をあて、麟太郎は後ろの椅子に座ってその様子を見ている。さながら見分役といったところだが、これも長年の習慣なので仕方がないものの、そろそろやめてもいいころだ。
「若先生、ちょっとくすぐったい」
 胸の下に聴診器をあてられた元子が大袈裟に体をよじった。近所の仕出屋の女将(おかみ)で年は四十代半ば。婿取りをしている家つき娘のため、潤一のことは子供のころから知っている。
「くすぐったいのは、体が正常な証し。少しは我慢してください、元子さん」
 潤一の声はあくまでも柔らかい。
「若先生がそういうんなら、私はどんなことでも我慢しますよ……」
 今度は甘えたような声だ。
 思わず後ろから麟太郎の咳払いが飛んだ。
「そんなに大袈裟なことをいわなくても、もう少しで終りますから」
 潤一の諭すようないい方に、
「えっ、もう終っちゃうんですか。もっときちんと丁寧に診(み)てくださいよ、若先生」
 元子の声がなじるようなものに変った。
「充分、丁寧に診てますから大丈夫ですよ、元子さん」
 潤一はまくりあげたシャツの下から聴診器をゆっくり抜く。
「ただの胃のもたれですから。規則正しい生活をすれば、このままほうっておいてもすぐ治るはずですよ」
 潤一が結論をいうと、
「規則正しい生活っていっても、商売をしていると、そういうことはなかなか難しいというか何というか」
 元子の反論が始まった。とたんに、
「何をいうか」
 大声をあげたのは麟太郎だ。どうやら堪忍袋の緒が切れたらしい。
「人間やろうと思えば、どんなことでもできる。それができねえというのは、やる気がねえっていうことだ。それは、お前さん自身の問題であって医者の領分じゃねえ」
 まくしたててから、さすがにいい過ぎたと思ったのか、
「そうじゃねえかな、元子さん」
 強面の表情を崩して笑ってみせた。
「そりゃあまあ、そうには違いないんだけどね」
 元子は肩を竦(すく)めてから、慌てて衣服の前を合す。何となく、麟太郎がそこにいたのを初めて認識したというかんじだ。
「じゃあ、若先生、また」
 笑顔で会釈して元子は診察室を出ていった。
「まったく、お前がくるとろくな患者がやってこん。何だ、いい年をして、あの甘えたような声は」
 眉間に皺をよせていう麟太郎に、
「それは仕方がないよ、親父」
 なだめるように潤一はいう。
「俺は親父より、うんと若い。それに俺は親父より、うんと体重が軽い。もうひとつ加えれば、俺は親父より、うんと患者に優しい。そういうことだから、何ともしようがない」
「そんなことは、わかってる。だけどよ、道理はそうなんだが、何となく癇に障るんだから仕方がねえ」
 口をへの字に曲げる。
「相変らず、子供のようなことを――」
 苦笑いを浮べる潤一に、
「そうですよ。この大先生は人間ができているのか、できてないのか。時々、まったくわからなくなるので、頭を抱えてしまいます」
 初めて八重子が口を挟んだ。
「できてはいるんだけど、器のどっかが欠けてるんだろうなあ。その欠けた隙間から風がすうすう入りこんで」
 面白そうに潤一がいう。
「風が入りこむんなら、もう少し頭が冷えてもいいようにも思えるんですけどね。いつも頭に血が昇りっぱなしになって」
 真面目な顔をして八重子が辛辣なことをいい、壁にかかった時計を見る。二時を少し回っていた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)