連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

「二人とも、いいたい放題のことをいいやがって」
 麟太郎は声を荒げるが、いっていることは事実なのだから当然迫力はない。
「まあまあ、親父。腹が立つのは腹が減ってるせいもあるだろうから、ここは手早く診療すましてさ」
 潤一はそういってから八重子に向かい、
「あと、患者さんは何人いるのかな」
 と鷹揚な口調で訊く。
「あと残っているのは、お一人です」
 八重子は簡単明瞭に答える。
「じゃあ、手早くすませて、田園のランチを食べに行こう。そのあと俺は大学のほうに戻るから」
 潤一の言葉に麟太郎はすぐに反応する。
「そりゃあ、無理だ。あそこのランチは二時までだからよ。すでにオーダーストップで食うことはできねえ」
 実をいえば麟太郎は潤一と二人で『田園』に行くのが嫌だった。行けばちやほやされるのは潤一で自分はほったらかしの状態。今まで何度もそんな思いをしている。だから、二時を過ぎたということは、麟太郎にとってはもっけの幸いといえた。
「大丈夫だよ。前に一人で行ったときは三時近くだったけど、ちゃんと夏希さんはランチをつくってくれたから」
 何でもないことのように潤一がいった。
「三時近くにランチを!」
 唸(うな)り声を麟太郎はあげる。
 初耳だった。しかし、先日行ったとき夏希は……また腹が立ってきた。潤一が顔を見せてくれるのは嬉しい限りだが、こういう扱いの違いを知ると心のほうが萎(な)えてくる。
「患者さん、入れますよ」
 そんな麟太郎の思いにはかまわず、八重子が催促するような声をあげる。
 最後の患者が入ってきた。
 意外な人間だった。
 沢木麻世が右手に通学カバンを持って立っていた。そういえば、あれから三日がたっている。今日は約束の日なのだ。しかし、午前中の診療にやってくるとは。前回同様、くるなら午後だと勝手に思いこんでいたが、この分だと学校のほうは――。
「麻世っ」
 思わず声をかけると、
「約束通り、きてやったよ。あんたのごつい顔を見がてらに」
 麻世はこういって、前に座る潤一の顔をちらっと眺め、
「こいつは誰なんだ」
 ぼそっといった。
「俺の倅(せがれ)で名前は潤一。いつもは大学病院に詰めてるんだが、ときどき、こうして休みの日にやってきて手伝いをしてもらっている。といっても、いつも半日ほどだが」
 麟太郎の言葉に麻世の視線が再び潤一の顔に移る。今度は凝視している。しばらく見ていてから、
「ふん」
 と鼻を鳴らして視線を外した。
「帰る。このおっさんに用事があってきたわけじゃないから」
 麻世は視線を麟太郎に向け、
「あんたが一人のとき、またくるよ。じゃあな」
 ほんの少し頭を下げて、さっさと診察室を出ていった。
「あの子は、いったい……」
 呆気にとられた顔で潤一がいった。かなり、度胆を抜かれた様子だ。
「ヤンキーの不良高校生ですから、気にすることはないですよ、若先生」
 すぐに八重子が声をあげ、
「狂言でしょうけど、手首を切って自殺を図ったといって前にここにきたんですよ。そのとき処置をした大先生が優しくしたもんだから……それでまた、やってきたんですよ」
 ざっとしたいきさつを簡潔に加える。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)