連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

「狂言自殺ですか」
 独り言のようにいう潤一に、
「左手首に刃物は入っていたが、橈骨(とうこつ)動脈にも尺骨(しゃっこつ)動脈にも達してはいなかった。ためらい傷ということも考えられるが、俺はこの子には最初から死ぬ気はなかった――そう診断した」
 一語一語丁寧に麟太郎はいい、
「そして俺は頑な心を持ったあの子に、話したいことがあればいつでもここにくるといいといった」
 真直ぐ潤一を見た。真摯(しんし)な顔だった。
「そういうことか、だから帰ってしまったのか。悪いことをしたな」
 潤一が抑揚のない声でいった。
「それにしても……」
 にまっと麟太郎が笑った。
「俺より、うんと若いお前におっさんとはなあ。まあ、あの子にとっては俺もお前もそれほど変りのない、その辺のおっさんに見えるんだろうな。いや、おっさんとはよくいった。まさに、言い得て妙――そんなところだな」
 嬉しそうにいった。というより、麟太郎は心底痛快だった。よくいってくれたと、麻世に拍手を送りたいぐらいだ。笑いを我慢しながら潤一を見ると、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。こいつも俺にけっこう似ている。ふとそう思った。
「ところで話は変るが、水道屋の敏之はお前のところに行ったのかな」
 気になっていたことを訊いてみた。
「きていませんね……仕事が忙しいのか、それとも親父の診断で安心しきって、くる気がなくなったのか」
 心配そうな口振りでいった。
「俺の診断たって、簡単な触診をしただけだからよ。ちゃんと行ってもらわねえと困るんだがなあ。まず大丈夫だとは思うんだが、念には念を入れてよ」
『田園』でのやりとりの次の日の昼、敏之は診療所を訪れて麟太郎の手から大学病院への紹介状を受け取っていた。
「いずれにしても、尻を叩かんとな。優柔不断なところがあるからな、あいつは」
 麟太郎は軽くうなずき、
「なら行くか。田園の時間外のランチを食いによ」
 上機嫌でいった。

 麻世が診療所に姿を見せたのは、それから三日後だった。
 午後の診察が終るころで、麻世は最後の患者だった。いつものようにふらっと診察室へ入ってきて、軽く会釈をしてから無言で麟太郎の前の椅子に座りこんだ。
「よくきたな」
 麟太郎は機嫌よく声をかけ、
「どうだ、傷の様子は」
 と、差し出した左腕をまず診るが傷はきれいに治りかけている。
「これなら大丈夫だな、あとはほうっておいても完治する」
 軽く傷の上をぽんぽんと叩いて、麻世の顔をじっと見る。
「話す気になったのかな、麻世は」
 できる限り優しい顔でいうと、麻世がわずかにうなずいた。あとは麻世が口を開くまで辛抱強く待つだけだ。
「大先生。私、薬剤の在庫の状況を調べてきますから」
 少しすると、八重子がこんなことをいって、診察室から出ていった。気をきかしたのだろうが、それでも麻世の口は閉じられたままだ。
 ようやく口を開いたのは、それから十分ほどが過ぎたころだ。
「居場所がないんだ」
 ぽつりと麻世はいった。
「居場所がないって……麻世の家はどういう状態なんだ」
 低い声で訊くと、麻世はまず自分の生いたちから話し出した。
 麻世は現在、馬道通り裏の古いアパートに母親の満代と二人暮し。父親は麻世が小学二年生のとき心筋梗塞の発作で呆気なく亡くなったという。
 昼はスーパーのパート、夜は清掃会社と母親の満代は掛持ちで仕事をしたが、それでも暮しは楽にならず、食べていくのがやっとだった。
 その満代が変ったのが三年ほど前。
 何がそうさせたのかはわからなかったが、満代は突然今までの仕事をやめて、向島のスナックに勤めるようになった。このとき満代は四十二歳、若いホステスには及ばなかったものの収入は増えて、生活は多少楽になった。このころの満代の口癖は、
「貧乏は恥、貧乏はもう沢山」
 こんな言葉を始終口にしていたという。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)