連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

 その満代に男ができたのが一年ほど前。
 満代より十歳ほど若い梅村という名で、満代はその男に夢中になった。梅村は崩れた雰囲気を持った男で、仕事は何をしているのか不明だったが週に一度はアパートに姿を見せて泊っていった。
 麻世は梅村が大嫌いだった。梅村が麻世を見る目には異常なものがあった。蛇が蛙を見るような目。ねっとりとした、粘着質の目だった。その目で梅村は麻世の体を舐めまわすように見るのだ。
 麻世はなるべく梅村と顔を合せないように行動したが、ひと月ほど前の夕方。泊っていた梅村はもういないはずだと学校からアパートに戻って玄関のドアを開けると、すぐ目の前に梅村が立っていた。満代は店に出かけていて留守のはずだった。
「あっ」と玄関口で声をあげる麻世の顔面に、いきなり梅村の強烈な平手打ちが飛んだ。一発で麻世の意識はなくなった。失神していたのは三十分ほどらしかったが、気がついた麻世は素裸にされ、その上に梅村が乗って体を揺らしていた。
「そんなことが――」
 話を聞き終えた麟太郎は絶句した。
「それから私は家に帰ってない。私は見た通り、一匹狼のヤンキーだから友達も少ないし。その少ない友達の家を今まで転々としてた」
 掠れた声で麻世はいった。
「一度も家に帰ってないって、それじゃあお母さんが心配するだろうに」
「心配なんかしないよ。学校のほうに一度だけ、行ってるかどうかの問い合せの電話があっただけでそれっきりだよ。あの人はあの男にのぼせあがっているから、あの男が私を嫌な目で見ていたのを知っていながら、何の対応もしようとしなかったんだから」
 麻世はひと呼吸おき、
「それに私はあの梅村が怖いんだ。どういうわけか怖くて怖くて、もし梅村と出くわしたら体が竦んで、また同じような目に……」
 絞り出すような声でいった。
「そうか、辛い思いをしたな、麻世――だから居場所がなくなったということか」
 麟太郎はいったん言葉を切ってから、
「そういう事情なら、しばらくこの診療所にいるか。幸いここには空き部屋がいくつもあるし」
 ゆっくりした口調でいった。
「えっ、そんなことをしてもいいのか、見ず知らずの私に。それで、あんたは困らないのか」
 麻世が驚いたような目で麟太郎を見た。
「ただ、俺もいちおう男だからよ。そんな事件があった麻世が俺を信頼できるかどうかだが――もっとも俺は大人の女にしか興味はねえから、金輪際大丈夫だけどな」
 わざと軽口を飛ばすようにいうと、
「あんたのことは最初から信頼してるよ。梅村の雰囲気が蛇なら、あんたはお地蔵さんというかんじだったから」
 ほんの少し麻世は笑った。
「お地蔵さんなあ……」
 独り言のように麟太郎はいい、
「ただ、そのあんたっていうのだけはやめてくれねえかな。どうにもすきま風が吹いてるようで居心地が悪い。他の呼び方なら何でもいいから」
 哀願するようにいった。
「じゃあ、親しみをこめて、じいさんでいいか。これなら、そのものずばりで、ぴったりだし」
 本当は大先生と呼んでほしかったが、今更そんなこともいえない。
「まあ、いいけどよ」
 麟太郎は妥協した。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)