連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

「だけど、本当にいいのか。ここに私が住んでも、本当に。周りから変に思われるんじゃないのか。迷惑じゃないのか」
 ふいに麻世が殊勝なことをいった。
「迷惑には違えねえが、そんなことに子供はかまわなくていい。変に思うやつには、そう思わせておけばいい。俺はそういうことは気にしねえ。まあ、娘が一人増えたと思えば、どってことねえからよ」
 噛んで含めるように麟太郎はいった。
「噂通りだな……頑固だけど、仏さんのような人だという……」
 麻世は深々と頭を下げ「ありがとうございます」と蚊の鳴くような声でいった。
 二人の間を優しい沈黙がつつんだ。
「あのなあ、じいさん」
 沈黙を破って麻世が低い声をあげた。
「じいさんは多分、私の手首を狂言だと思ってるだろうけど、あれは本気だったから。狂言なんかじゃないから」
「狂言じゃねえ?」
 そうなると、見たて違いということになる。
「そうだよ。あのときは本当に死ぬ気で手首を切ったんだ。悲しかったということもあったけど、それよりも悔しくて情けなくて。だから、もう死んでやろうと思って」
 妙なことを麻世はいった。
「悲しさよりも、悔しさと情けなさっていうのは、どういうことなんだ」
 思わず身を乗り出す麟太郎に、
「詳しい話は、また今度でいいかな。一度に何もかも話すのは、けっこう辛いから。二、三日中に必ず話すから」
 麻世はすがるような目を向けた。両目が潤みをおびていた。
 どこからどう見ても幼い顔だった。こんな子供が訳のわからん性悪男に……それに麟太郎には大きな危惧がひとつあった。妊娠の二文字だ。こういう場合、どんな医者でもまず考えることだが、さすがにこれはまだ麻世に問い質すことはできない。
「わかったよ。その気になったら、いつでも話してくれ」
 大きくうなずいた。
「それから、麻世」
 厳かな声を麟太郎は出した。
「近いうちに、俺は麻世のお母さんの住むアパートに行ってこようと思う。いくら何でも娘さんを一人預かるのに、親御さんに挨拶なしというのもまずいからな」
 麻世の顔をじっと見た。
「そんなこといいよ。さっきもいったけど、学校に一度電話があっただけで、あとはほったらかしの親なんだから」
 ぶっきらぼうにいった。
「麻世はまだ未成年だからな。いくら善意といっても、勝手にこの家で預かってしまえば誘拐罪に問われる恐れもあるから、そこのところはきちんとしておかねえとな」
「誘拐罪になるのか!」
 驚いた声を麻世があげた。
「それでもし、もめるようだったら、すぐ近所にある浅草署に相談して善処してもらう。商売柄、警察とこの辺りのヤクザには顔が利くから何も心配することはねえ」
「へえっ、じいさんはヤクザと警察に顔が利くのか、凄いなそれは」
 女の子らしからぬ言葉が返ってきた。何かがずれている。どうやら麻世は、普通の女の子とは興味の対象も頭の構造もちょっと違うようだ。
「とにかく、そういうことだから了承しておいてくれ」
「いいけど――アパートには梅村が一緒にいるかもしれないから。あいつは凶暴な男だから、じいさんも気をつけてよ」
 嫌な思いが蘇ったのか、麻世は顔をしかめていった。
「もし殴りかかりでもしてきたら、逆に投げ飛ばしてやるさ。俺はこう見えても、喧嘩にゃけっこう強いんだ」
 麟太郎は学生時代はずっと柔道部に所属しており腕前は三段、若いころは数々の武勇伝を残している。
「じいさん、喧嘩に強いのか。まあ、ガタイが大きい分、馬力だけはありそうだけど」
 麻世は小さく何度もうなずいた。
「それから、麻世の荷物もできる限り、もらってきてやるからよ。特に持ってきてほしいものがあったらメモしておくといい」
「ないよ、そんなもん」
 すぐに返事が耳を打った。
「教科書の類いは学校に置きっぱなしだし、衣服の類いも数着でほとんどないし――そんなこと気にしなくったっていいよ」
 何でもないことのようにいった。
「そうか。とにかく、できる限りのことはしてくるから」
 麟太郎の言葉に麻世はこくっとうなずく。
 思いがけない展開になったが、この夜から麻世は二階の妙子の使っていた部屋で生活することになった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)