連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

 次の日の朝──。
 何を思ったのか麻世は台所に立って麟太郎のために朝食をつくり出した。といってもバタートーストに目玉焼き、それにインスタントコーヒーという簡単なものだったが。
「すまんな、麻世。こんなことまでさせてしまって」
 これぐらいは当り前だと思いつつ、恐縮した声を麟太郎があげると、
「置いてもらうんだから、これぐらいやるのは当然だよ」
 麻世も恐縮したような調子で答える。
 普通の女の子とはすこしずれていると思ったが、世間並の常識は備えているようだ。
「それなら麻世。ついでに夕食も麻世がつくるというのはどうだ。お前にしたら面倒かもしれねえけどよ。俺は近所へ呑みに行く日も多いから、毎日じゃねえし」
 嫌な顔をするだろうと構えていると、
「いいよ」
 あっさり麻世は承諾した。拍子抜けのする思いだった。
「その代り、まずいかもしれないけど」
 ぼそっといった。
「いいさ、まずくても。腹のなかに入れば充分事は足りる――しかし、日頃の麻世に較べると今日は嫌に素直じゃねえか」
「さっきもいったように置いてもらうんだから、何かはしないと筋が通らないからね」
 筋とは――女の子らしからぬ事を、また麻世がいった。
「要するに、お手伝いさん代りに私を使ってくれればいいんだよ。そうすれば私も気が収まるから」
 このとき麟太郎の頭が閃いた。
「よし。じゃあこうしようじゃねえか。麻世はうちのお手伝いさんになれ。炊事と洗濯、それに掃除が麻世の仕事だ。むろん、少ないが給料はやる。といっても、そこから学費やら食費やら服代やら何やらかんやら引くと、小遣い程度になっちまうがよ」
「いいね、それ。それなら縮こまっていなくてもいいから。それはいいよ、じいさん。いたらない、お手伝いさんになるだろうけど」
 初めて麻世がはしゃいだ声をあげた。
「それに、服まで買ってくれるのか、じいさん」
「ああ、高いもんはだめだけどな」
 何だか麟太郎も楽しくなってきた。本当に娘が一人、できたような気分だ。
「小遣いもくれるのか」
「沢山はやれんが、並の高校生ぐらいはな」
 申しわけなさそうにいうと、
「ふうん。じゃあ、もう恐喝(カツアゲ)はしなくていいんだ」
 物騒なことを麻世がいった。
「お前、そんなことをやってたのか。それは駄目だ、金輪際駄目だ」
 思わず声を荒げると、
「わかってるよ。もうしないよ」
 麻世はぺろっと舌を出した。どうやら麻世も、この情況を楽しんでいるようだ。
 こうして麟太郎は診療所から麻世を都内の高校に送りだしたのだが、もうひとつ大仕事が残っていた。麻世をこの家に置くに際しての、八重子と知子の了承だ。
 しばらくしてやってきた八重子と知子に麟太郎は麻世におこった出来事の詳細をつつみ隠さずに話した。それがいちばんいい方法だと思った。むろん、二人には固く口止めをしての話だが。
「そんなことになってたんですか、あの子。世の中には酷い親や男がいるもんですね。かわいそうに」
 話を聞き終えた八重子が低い声でいった。
「そうだな。とんでもない事が、つい近くで起きていたということだな」
「そんな状況なら、私は反対しません。でも、今回は究極のお節介ですね、大先生。家にまで引きとるっていうんですから」
 ほんの少し嫌みのようなものが感じられたが、八重子は案外すんなり納得した。
「知ちゃんは、どうだ」
 麟太郎は視線を知子に向ける。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)