連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

「もちろん、賛成します。私だって、けっこうワケアリの身ですから」
 自分の境遇をちらっと口にしながら、知子はあっさり賛成した。安堵の気持が麟太郎の体に湧きあがる。これで麻世が二人の顔色を窺って暮すことだけは避けられる。
「だけど、大先生……」
 意味ありげな目で八重子が麟太郎を見た。
「かわいそうな境遇よりも、まさか、あの子の可愛らしさに目が眩(くら)んで、ここに引き取る気になったんじゃないですよね」
「あん?」
 何をいわれたか、麟太郎には意味がわからない。
「可愛らしいって、誰が可愛いっていうんだ」
 ぱかっと口を開けたまま訊くと、
「麻世さんですよ。あの子、相当可愛らしい顔をしていますよ」
 真面目そのものの表情でいった。
「麻世が! 俺には単なる幼い子供顔にしか見えねえけどよ」
 こっちも真面目そのものの口調だ。
「何をいってるんですか、大先生は。今はああいう子供顔がもてはやされている時代なんですよ。まったく大先生の美意識は、昭和というよりは大正時代くらいで停止してるんだから」
 八重子はじろりと麟太郎を睨んで、
「どちらが男性に人気があるかといえば、正統な美人顔の夏希さんより、可愛らしさの麻世さんのほうが上のはずですよ。ねえ、知ちゃん」
 とんでもないことを口にした。
「私もそうだと思う。モテ度からいったら夏希さんより麻世ちゃんっていう子のほうが上。私は受付だから、じっくり見たわけじゃないけど、それでも顔形は今でもちゃんと覚えていますから。それに」
 言葉を切る知子に、
「それに何だ。はっきりいえ」
 急かすように麟太郎は大声をあげる。
「あの子、まったく化粧なしのスッピンですよ。あれでちゃんとしたメイクをしたら……相当な女ができあがるはずです。悔しいことですけど」
 本当に悔しそうにいうが、麟太郎には二人の言葉がなかなか信じられない。どこからどう見ても麻世は単なる幼な顔。それに、いうに事欠いて夏希より麻世のほうが上などとは到底容認できるはずがない。
「悪いが俺には信じられん。どう考えても、俺には夏希ママのほうが数段上に見える。そうとしか考えられん」
「多分、大先生は見る目がないんです」
 極めつけの言葉を知子がいって、八重子もうなずきをくり返した。

 麻世の住んでいるアパートはすぐに見つかった。鉄骨モルタル造りの古い二階建てで、かなり傷んでいるようにも見えた。麻世たちの部屋は二階のいちばん西の端だ。
 腕時計を見ると二時を少し回ったところ。この時間帯なら母親の満代はまだ部屋にいるはずだ。
 麟太郎はドアの前に立ってブザーを押す。
 しばらくすると部屋のなかに動きが感じられ、ドアが細目に開いて中年の女の顔が覗いた。これが満代だ。
「私、浅草署脇で診療所をやっております、真野というものですが。お宅のお嬢さんの麻世さんのことでお話があって伺ったんですが」
 というと、ドアチェーンが外されて扉が開いたが部屋のなかには通されず、麟太郎は玄関口で満代と話をした。
 満代は影の薄い女だった。顔立ちは整い、肌の色も白かったが、そのまま背景に溶けこんでしまいそうな印象を与えた。
 麟太郎は事の詳細は語らず、縁あって麻世は現在家で預っているが、このまましばらくこの状態をつづけたいと簡単に満代にいった。満代は相槌を打つだけで声には出さず、話の最後に「わかりました」と一言だけいって深く頭を下げた。事の成りゆきをすべて察知しているような態度だった。
「できれば、麻世さんの衣類などを持って帰りたいのですが」
 と麟太郎がいうと、満代はすっとその場を立って部屋のなかに消えていった。入れ代りにトレーナー姿の男が一人、麟太郎の前に立った。大きな体で筋肉質の男だった。目つきが鋭く、左頬に五センチほどの切り傷があった。これが梅村に違いない。
「なんで麻世が、てめえの所にいるんだ」
 梅村は突っ立ったまま麟太郎を睨みつけた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)