連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

「お前さんにいう必要はねえだろう」
 ぼそっというと、
「いう必要がねえとは、どういう料簡だ。俺は麻世の保護者同然の身だ。知る権利があるだろうが」
 押し殺した声を出した。
「保護者なら保護者らしい、ちゃんとした振舞いがあるだろうが。違うか、梅村さんよ」
 今度は麟太郎が睨みつけた。
 とたんに梅村の顔がすうっと白くなった。
「てめえも麻世の体が目当てか」
 掠れた声を梅村は出した。
「莫迦をいうな。こっちこそ本物の保護者のつもりだ。あんたと一緒にされたら迷惑だ」
 梅村の両目が糸のように細くなった。
 これは殴り合いになるかなと、麟太郎は重心をほんの少し低くする。睨み合いになった。目を逸らしたほうが負けだ。大人気なかったが逃げるわけにはいかない。
 どれぐらい睨み合っていたのか。
 部屋のなかから大きなボストンバッグを二つ提げた満代が姿を見せた。
「すみません、これをあの子に」
 細い声でいった。
「確かに預かりました」
 バッグを受けとり「失礼します」と頭を下げて梅村のほうを見ると、そのまま睨みつけていた。こいつはまだ、麻世に執着心を燃やしている。そう思った。アパートの外に出て大きな深呼吸をした。

 その日の診療が終って母屋のほうに行くと、麻世が台所に立っていた。
「おっ、この匂いは」
 麟太郎が声をあげると、
「カレーだよ。私のレパートリーのなかで、まあまあまともにできる、数少ない料理のひとつだよ」
 鍋に目を落したまま、麻世がいう。
 麟太郎は食卓の椅子に腰をおろし、首を回して肩のこりをほぐす。
 しばらくすると麻世がやってきて、向かいの椅子に腰をおろす。
「あとは煮こむだけ」
 麻世は軽い口調でいって、
「悪かったな。わざわざうちにまで行ってくれて」
 ぺこりと頭を下げるが、アパートでの様子は訊かないし、麟太郎も話すつもりはない。
「小学生のときから、ずっと苛められっ子だった」
 しばらくして麻世がぽつんといった。
 どうやら何かを話す気になったらしい。
「原因は貧乏……なんで貧乏だと苛められなきゃいけないのか、わからないけど」
「そうだな、理不尽だな」
 としかいいようがない。
「中学、高校になると不良グループから目をつけられるようになった」
「貧乏が原因で、不良グループが苛めをするのか」
 怪訝な思いで訊き返すと麻世は少し黙りこんでから、
「これは私がいってるんじゃなく、相手がそういうだけのことだから勘違いするなよ」
 妙な前置きを口にして宙に目をやった。
「ちょっとばかし可愛いからって、すかしてんじゃねえって――」
 いかにも恥ずかしそうにいった。
「そうか、大きな原因はそこか」
 とたんに麟太郎は嬉しくなって、顔が綻んだ。そういうことなのだ。しかし、そうなると八重子と知子のいったことは正しいということになる。どうやら麻世は、世間ではかなりの美形ということで通っているようだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)