連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

「何だよ、笑うなよ。だから、私がいってるんじゃなくて、他のやつらが勝手に思いこんでいるだけで、実際は、こんな男みたいなかんじだし、下品だし」
 麻世はむきになったように弁解する。
「まあ、いいじゃねえか。苛めの原因は貧乏と、麻世のその美形ということで」
 笑いながらいうと、
「何だよ、そのビケイっていうのは。まあ、何でもいいんだけど、とにかく毎日苛められるのは嫌だから、そうなったら殴り返せばいいって子供心にも思ったんだ。それで、小学校五年のときに今戸(いまど)神社の裏にある、ちっぽけな剣術の道場に通い出したんだ」
 麻世は剣道といわずに剣術といった。
「そこは林田先生という老人が道楽のためにやってたような道場で、月謝はタダ。だから私でも通えたんだけど、稽古が厳しいために門弟の数はいつも数人で、増えなかった。でも私は歯を食いしばって頑張った。苛められるのが本当に嫌だったから」
 流派は柳剛流(りゅうごうりゅう)――古来より伝わる実戦剣法だと麻世はいった。柳剛流は総合武術で剣術の他に組打技も伝わっていて、当て身、蹴り、投げ、関節……何でもありの喧嘩技が特徴だった。麻世はこの道場通いを林田が病で臥(ふ)せる高校一年まで続けていたという。
「メインは竹刀の打合いよりも重い木刀を使った型稽古で、気持を引締めてやらないと大怪我をすることになるんだ」
 と麻世は熱っぽく語る。
 こんなことがあったという。
 中学二年のとき、クラスの男子生徒から、
「貧乏人は、どんな下着をつけてんだ」
 と、いきなり両手で制服の胸元を押し広げられた。どうやらその生徒は麻世のことを好きだったらしいが、さすがに頭にきて、つかんできた右腕を肘を直角にした両手で固め、そのまま体を開いて逆に返した。生徒は一回転して背中から床に落ちた。麻世はまだ、生徒の右手首を離さない。こねあげた。
「莫迦野郎、腕を折るぞ」
 叫んだ。生徒が悲鳴をあげた。
「それから苛めはなくなったけど、友達もいなくなった。近づいてくるのは、ヤンキーばかりで、まともなやつはいなかった」
 それからは他校のヤンキーたちと喧嘩三昧の毎日になった。男が相手だと、さすがに素手では勝目のないこともあったが、棒きれ一本あれば何とでもできた。
「だから、私のカバンのなかにはいつも用心棒が入っている」
 妙なことをいった。
「用心棒?」
「そうだよ、用心棒――これがあれば怖いものなし」
 いうなり麻世は立ちあがって二階へかけあがり、通学カバンを手にして戻ってきた。
「これが、私の用心棒」
 通学カバンのなかから長さ十センチちょっとの金属の筒のような物を取り出し、それをひと振りした。ガチャッという音とともに筒は六十センチほどに伸びた。警察官の持つ特殊警棒だ。
「こんな物、どこで手に入れたんだ」
 驚きの気持で訊くと、
「通販」
 と嬉しそうに一言で答えた。
「それを持っている限り、麻世は俺と喧嘩しても勝てるというのか」
「勝てるよ。私はけっこう強いから」
 胸を張っていった。さっきの可愛らしさのときのやりとりとは、まったく逆の態度だった。麟太郎は、この麻世という少女の本質がぼんやりと見えてきたような気がした。
「その私が……」
 突然、麻世の声が震えをおびた。
「あんなクソ野郎にいいようにされて。おまけにあいつのことを考えると怖くて怖くて、それが情けなくて悔しくて……」
 唇をぎゅっと噛みしめた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)