連載
下町やぶさか診療所
第一章 左手の傷(後) 池永 陽 You Ikenaga

 ようやくわかった。普通の女の子とのずれの正体だ。外面は女性でも、内面は男――麻世は小学生のときから今まで、ずっと様々なものと闘いつづけてきたのだ。それこそ命を張って。その結果、麻世の女の部分は脇に追いやられ、荒々しい男の部分が表面をおおってしまった。
 麻世の両目が麟太郎を見た。
 右腕を前に突き出した。ボタンを外してシャツを一気にめくりあげた。「あっ」という声が麟太郎の口からあがった。
 無惨だった。麻世の右腕の内側には無数の傷が走っていた。赤い傷痕が盛りあがってケロイド状に引きつれていた。
「自分でやったのか」
 ぼそっという麟太郎に、
「そうさ。あのことを考えると体が震え出して、どうにもこうにも収まらなくなって、こうでもしないと気が狂いそうで。だから、あのあと、毎日毎日自分の体を切り刻んで気持を鎮めたんだ。だけどなかなか……」
 両肩を震わせて麻世はいった。
「それで、あの夜。いっそ死んでしまえば悲しみも苦しみも情けなさも悔しさも、全部から解放されると思ってカッターナイフで」
「手首を切ったが失敗した。なぜなら麻世は左利きだったから。それが右手でカッターナイフを握って事におよんだため、力の入れかげんがわからなかった。そういうことだな」
 こくっと麻世はうなずいた。
 麻世の動きがぎこちないと感じたのも、これが原因なのだ。左利きなのに右利きのまね。これが体のバランスを崩したのだ。
「だがよ、なぜ手首を切るとき利き手の左ではなく、右手を使ったんだ」
 これがわからなかった。
「左手を使って失敗したとき、右腕の傷痕をさらすことになるじゃないか。そんな無様(ぶざま)で恥ずかしい思いをするのは嫌にきまってるだろ。情けないじゃないか」
 吐き出すように麻世はいった。
 やはり、麻世の心は男なのだ。女なら、そんなことに恥ずかしがるはずがない。麻世は男。それも筋金入りの男なのだ。
「麻世……」
 麟太郎は柔らかな声をかける。
「俺に話して、少しは気が楽になったんじゃないか」
「少しはね――でも、やっぱりすべてを楽にするためには」
 ぽつりと麻世は言葉を切った。
 嫌な気持が麟太郎の胸をつつみこんだ。
「楽にするためには、何だ」
 思わず怒鳴った。
「あいつを殺すしかない。それしか楽になる方法はないよ」
 いうなり麻世はテーブルに突っ伏した。両肩を震わせた。泣いているようだったが、麻世は声を出さなかった。麻世は無言で泣いた。両肩が激しく波打った。
 麻世の心を普通の女の子に戻さなければ。
 無言で泣く麻世を見て麟太郎はそう思った。もちろん、人殺しなどさせるわけにはいかない。では、どんな方法で……どう考えてもわからなかったが、麻世を幸せにするのは自分の役目だと思った。
 そのとき麻世が麟太郎を見た。
「人前で泣いたのは初めてだよ」
 ほんの少し笑った。
 麻世はこの診療所の新しい家族だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)