連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・前 池永 陽 You Ikenaga

 音程が少しずれている。
 フロアに立って歌っているのは水道屋の敏之だ。
『田園』のママの夏希とデュエットをしているのだが、さすがに夏希のほうは音程もしっかりしているし声もよく通っている。
 歌が終り、夏希はカウンターのなかに入り、敏之は自分の席に戻ってくる。
「相変らず、おめえは下手くそだな。あれじゃあ、デュエットしている夏希ママがかわいそうだ」
 早速、一緒に飲んでいる麟太郎が悪態をつく。
「上手に歌うとママが引き立たねえから、わざと下手に歌ってんだよ。これでもこちとら、世間にゃあ、けっこう気を遣ってんだ。こういうのを男の実(じつ)ってんだ、べらぼうめ」
 敏之は威勢がいい。癌を気にして落ちこんでいたときとは、えらい違いだ。
「実なあ……」
 麟太郎はぼそっといい、
「それにしても、おめえ。近頃やけに威勢がいいが、胃のほうは大丈夫なのか。何度尻を叩いても、大学病院からは顔を見せたという知らせがこねえんだがよ」
 医者の表情に戻って麟太郎はいう。
「俺はどうも、ああいう晴れがましいところは性に合わなくてさ。それに、おめえに太鼓判を押してもらったせいか、近頃はやたら調子がよくてよ」
 照れたような表情を敏之は浮べる。
「調子がいいのはけっこうだが、俺は太鼓判を押したつもりはねえぞ。簡単な触診をしただけで、それでは心配だから精密検査をしてもらえっていってるんだからよ」
 呆れた口調でいう麟太郎に、
「わかってる、わかってる。暇を見つけてちゃんと行ってくるから。決して麟ちゃんの顔を潰すようなことはしねえから。だから、今んとこは、もう少し」
 いい終えるなり、敏之はコップに半分ほど残っていたビールを一気に飲みほした。
「本当に本当だな、ちゃんと行くんだな。あとでしまったと悔やんでも遅いからな」
 脅し口調で麟太郎がいうと、敏之は大袈裟に首を前に倒してから、
「俺のことより、矢田時計店が、けっこう大変らしいぜ」
 あっさり話題を変えてきた。
「矢田さんなあ……」
 麟太郎も独り言のようにいって顔を曇らせる。
 診療所と同じ町内にある矢田の家は時計店といっても十年以上も前に廃業して、今は老夫婦が二人で住んでいるだけ。主人の矢田雅勝は八十一歳で心臓に疾患は抱えているものの、まだ矍鑠(かくしゃく)としているが問題は七十六歳になる、妻の久子だった。
 五年ほど前から認知症が進行していた。
 いわゆる、アルツハイマー型というもので、初期症状はもの忘れの酷さだった。それが徐々に妄想、幻想、興奮、徘徊へと進行して、近頃では暴力行為におよぶこともあるという。抗不安薬、抗精神薬、抗欝薬等の薬剤はあるものの、いずれも対症療法であり、認知症を根治する薬物も治療法も現在ではまだないというのが実状だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)