連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・前 池永 陽 You Ikenaga

「物の分別がつかなくなり、近頃は徘徊癖も酷くなって、矢田さんに暴力をふるうこともあるそうだ」
 掠(かす)れた声で敏之がいった。
「うちにも月に何度かきているが、手の施しようがな……精々、矢田さんの愚痴話を聞いてやるぐらいが関の山で、まったく情けなくなるなあ」
 麟太郎も掠れ声で答える。
「あそこは老々介護だろ」
「ああ。極力、ボランティアのヘルパーには行ってもらうよう頼んではいるが、雅勝さんが八十一で久子さんが七十六……相当大変なのは想像がつくよ。たった一人の息子さんは、大阪の大学を出て向こうで所帯を持っているから、これもなかなか当てにはできねえしな」
「向こうからの手助けはあるだろうが、矢田時計店は俺んところと同じ国民年金だろ。入ってくる金もささいなものだし。俺っちもいずれ、そうなるんだろうなあ」
 やりきれない口調で敏之がいい、麟太郎が小さな溜息をついたところへ、夏希がやってきた。手に小鉢を持っている。
「どうしたんですか、暗い顔をして」
「年を取るのは辛(つら)いことだっていう話を、二人でしみじみとな」
 麟太郎が低い声でいうと、
「あらっ。二人とも、まだそれほどの年なんかじゃないのに」
 夏希が首を左右に振って答えた。
「年だよ。還暦を過ぎたら、みんなもうクソジジイだよ。何の楽しみもなく、毎日が淡々と過ぎていくだけで、考えるだけでも悲しくなってくるよ。そんなとき、せめて夏希ママが優しく――」
 と、敏之がいいかけたところで、
「ところで、ママはいくつだったっけ」
 麟太郎が何気なく訊いた。
「えっ、私の年ですか」
 夏希は一瞬、口ごもってから、
「そんな、つまらないことより、これよかったらどうぞ」
 持っていた小鉢をテーブルの上に置いた。
 盛りつけてあるのは肉じゃがである。
「これ、ママがつくったのか」
 感心したような敏之の声に、
「何も驚くことないじゃない。お昼のランチだって、ほとんど私がつくってるんだもの。これぐらいは簡単ですよ」
「そうか、そうだった。肉じゃがっていうと、どうも特別な料理に思えて――例のオフクロの味というやつで、それでつい感動してしまった」
 弁解するように敏之はいい、添えられていた箸を取る。麟太郎も同じように箸を取り、鉢のなかの肉じゃがをそっとつまんで口に持っていく。



 2        10 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)