連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・前 池永 陽 You Ikenaga

「こういったことは前より……」
「はい。酷くなっています。近頃は私の言葉もわからないのか、自分の思う通りにならないと、拳を振り回して突っかかってくるようにもなりました」
 矢田の顔には、夜目にもはっきりわかるほどの疲労感が張りついている。勝手に動き回らないように矢田の右手は久子の腰のあたりをしっかりつかんでいた。
「久子さん、俺の声が聞こえますか」
 やや大声で麟太郎は久子に声をかける。
「聞こえるが、それがどうした」
 噛みつくような声が返ってきた。
「俺が誰だか、わかりますか」
 できるだけ優しく訊いてみる。
「知らん。訳のわからんことをいうな。どこの馬の骨じゃ」
 真直ぐ麟太郎を睨みつけてきた。眉間に深い縦皺がくっきりと刻まれて、微(かす)かに唸(うな)り声をあげ始めた。
「すみません。機嫌のいいときはおとなしいんですが、今は気が昂(たかぶ)っているようで」
 矢田の言葉通り、久子は肩を怒らせて足踏みを始めている。とにかく動きたいのだ。それしか久子の機嫌を直す方法はない。無理に押えつけようとすれば、怒鳴り声をあげて暴れ出すに違いない。
「こちらこそ、本当に申しわけなく思っています。顕著すぎるほどの症状に対して何ら有効な手が打てないというのは……情けない話です。本当にすまないと思っています」
 麟太郎は矢田に向かって深々と頭を下げた。
「いや、そんなことは。これは決して大先生のせいじゃないですから。どうしようもないことですから」
 矢田の声に幾分覇気がまじる。
 自分の苦労を察してくれる人間がいるというだけで、ほんの少しではあるけれど心のほうは和むのだ。だから麟太郎の診療所には人が集まってくる。壊れかけた心を何とか繕うために。
「すみません。近日中に診療所のほうへ、お伺いしますので」
 その言葉が合図のように、つんのめるような格好で久子が歩き始める。右手で久子の腰のあたりをつかんだ矢田が、すぐにその後につづく。
「二人三脚だな」
 二人の後ろ姿を見ながら敏之が、ぽつんといった。
「辛い二人三脚だ。それも、ゴールのない二人三脚だから余計に辛くて悲しい」
 麟太郎は言葉を絞り出した。
 麻世は台所に立って夕食の準備だ。
 この診療所に麻世が住みついて十日ほど。今のところ何の問題もおきてはいない。毎日、夕方の六時頃までには帰ってくるし、それから出かけることもない。朝食と夕食の仕度も曲がりなりではあるが、こなしているし、掃除や洗濯もきちんとやっている。たったひとつ気になるのは、一度だけだったが顔に痣(あざ)をつくって帰ってきたことだ。どうやら、喧嘩だけはまだしているらしい。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)